七夕。どこかで何かしていないかと探して行ったのが、球技上達祈願で有名な白峯神宮。今出川通を自転車で行き、御所を越えた辺りから、ポツポツと雨が降り始める。
提灯にも幕にも軒丸瓦にも、菊の御紋。それもそのはず、ここは崇徳院を祀る神社だ。崇徳院と言えば、百人一首の「瀬をはやみ・・・」、それに落語も思い出すが、恋愛などというロマンチックで華やかな世界とはかけ離れた、不運で悲しい後半生だった。保元の乱で讃岐に配流され、そのまま1164年に崩御。讃岐の白峯山陵に葬られたが、その後朝廷にも京にも良くないことが続き、怨霊伝説を生んでいる。祟る神は鎮魂せねばならない。京に御影堂ができるが、応仁の乱で消失してしまった。この崇徳院の霊を京にもう一度祀ろうとしたのが孝明天皇だった。1868年8月、飛鳥井邸を社地とし、創建したのは明治天皇。後に淳仁天皇(道鏡事件で淡路島へ配流)の霊も合祀している。孝明天皇も、平氏が台頭して朝廷の力が弱まったのは、崇徳院の祟りと思ったのだろうか。霊を祀れば、明治維新前夜の不安定な状況を打破できると考えたのだろうか。
この地には、蹴鞠をこととする飛鳥井家が、邸宅内に精大明神を祀っていた。精大明神は「蹴鞠の神様」と言われ、国内はもちろん世界を相手に戦うサッカーやバレーのチームからもボールを奉納されている。それにしても、この神の名前を『古事記』や『日本書紀』で読んだ記憶がない。滋賀県大津市平野神社の祭神も精大明神だが、これは「7世紀、西洞院滋野井に祀られた精大明神を松本の狐谷に移し」たものだそうで、ルーツは京都だ。西洞院はこの白峯神宮の二本東の通りで、滋野井は府庁の南西角辺りか。鎌倉時代、「滋野井」の近辺に蹴鞠の達人藤原成道が住んでいて、その孫・宗長は蹴鞠の難波家、雅経が飛鳥井家の祖という。大津の方は難波家の筋というから、両者の精大明神は同じということになる。
公式HPには2時半から例祭だと書いていたが、突然の雨で、開始時間を10分ほど早めたのかもしれない。私が到着した22分には、もう雅楽の音がしていた。雨はどんどん強くなり、風もあって、舞殿の庇では雨除けにならないほど、どこから降っているのかわからないほど、後ろからも右からも左からも、ときには前からも、雨の飛沫がかかる。
本来なら舞殿西側の鞠場で行われる蹴鞠奉納も、舞殿で行われることになった。梶の枝につけた神聖な「枝鞠」を、鞠場に放つ「解鞠の儀」。順に鞠をあらため、試し蹴り「小鞠 」の後、8人で蹴鞠を行った。
広さや天井の制約があるせいか、なかなか続かない。蹴鞠というよりも、この装束を見て楽しんだ。絽の水干に、紬の袴。革沓の色も違う。技の程度によって、この装束の色目が決まっているらしい。確か300ぐらいと言っておられたような・・・・・・。この辺をもっと詳しく聞きたかった。ずっとマイクで解説をされていたが、雨音が大きくてよくわからないところもあり、少し残念。
4時半からは、子どもたちによる小町踊りがあったらしい。雨が小止みになったのを見計らって、その前に帰った。それにしてもよく降った。
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