渉成園は、東本願寺の飛び地境内地である。東本願寺創建(1602年)後、家光より宣如上人に寄進された土地を同上人が隠居所と定め「渉成園」と名づけた(1653年)とのことである。「枳殻邸」と称されるのは、周囲に枳殻(カラタチ)を生垣として植えていたからだという(以上、「名勝 渉成園-枳殻邸ー」パンフレットより)。
渉成園の入り口は西側、つまり東本願寺に向かっている。北門と南門もあるが閉じられており、東側には木戸だけがある。
上の写真左は、東側(河原町通沿い)の、かなり傷んだ築地の様子。東西の塀にある軒丸瓦は左三つ巴である。同右は、北側(上珠数屋町通沿い)の築地。南北の塀にある軒丸瓦は「本願寺」の銘入りだった。
カラタチの生垣は、現在南門の左右各10m程度に見られるが、何度か火災被害にあっていることから、後世、植えられたものと考えられる。カラタチは、入口前方や左手にもわずかながら見られ、名前の由来を留めようとする意志が感じられる。鋭いトゲのある枝が絡み合うカラタチを生垣にした意図は何だったのだろう。俗世からの隔絶か、単なる防犯か、当時のはやりか。
入口を入ると右手に受付があり、庭園維持の志納金(500円)を納めると、上述のパンフレットがもらえる。園内マップ・写真・園内の説明、といった内容でわかりやすい。パンフレットを参考にしながら園内を歩く。
以上、パンフレットにある参観ルートに従って撮影。
現在、二箇所で工事中、また庭師の方による剪定中でもあった。縮遠亭(上にある縦長写真)崖下に植わっている松の手入れは、舟を浮かべて葉を落とすという大変な作業。広大な池に島は3つ。ただでさえ危険の伴う高所作業に、水も加わるとは。熟練の職人さんであってもどうぞお気をつけください……。
左端に見える石塔は、「源融ゆかりの塔」である。鎌倉時代中期に源融の供養塔として建立されたといわれているとのこと(上記パンフレットより)。当時、この辺りが『源氏物語』にある光源氏のモデルとなった源融の屋敷跡(六条河原院)とされていたためであろう。実際の六条河原院庭園の池は、1994年の発掘調査で、渉成園北東角より北約500mほどの場所(現在の五条通富小路北側)ということがわかっている。なお、木屋町通五条下ル東側に「此附近源融河原院址」の石碑がある。
公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所の資料(京都アスニーにて入手の「平安京の主な施設と邸宅」)によると、河原院は、左京四坊にあり、北は六条坊門小路、南は六条大路、東は東京極大路、西は万里小路に囲まれた場所にあったことがわかる。
さて、特別公開の園林堂は、写真下の塀の向こうの右手にあり、入口がわかりにくく迷っている人もいた。
受付を済ませ閬風亭でガイドさんの説明を聞く。このい広間では撮影OKということで、作庭が伝えられる石川丈山筆の額を。
丈山の詩仙堂は、小ぶりな枯山水庭園と傾斜地を生かしたすばらしい庭である。小さな池もあるが、渉成園の広大な池を中心とした庭園とは、全く趣が違う。
閬風亭から寒い廊下を通り過ぎ、持ち物をすべてロッカーに預けて、園林堂へ。棟方志功作の襖絵44面は、薄暗い中での鑑賞であった。パンフレットのきれいな写真で再確認。
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