シリーズ2日目
1日目はACPについて書きました。患者が自分の治療を選択する権利です。
日本では「お医者様が言う通りに」と自分の治療計画の決定プロセスに参加しない患者が諸外国に比べて多いと言われています。その背景には国民性や文化や歴史、習慣などがあると言われています。例えば上下関係を尊重する文化。医者という専門家をたてるために自分は医療の事はわからないから専門家へ任せると自分を低く位置付けるなど。
しかし海外では医療は患者が中心にあるべきで医師も含む全ての医療従事者が患者の意思を支えるチームと位置付けられています。これは新しい医療のあり方で近年ACPの普及に尽力を尽くしています。よって国民全員がACPを理解しているわけではありません。これは前置きとして書いておきます。
国民の中には全てのできる限りの手を尽くして治療して欲しいと言う人もいるし、ACPについて考えていない人もいます。そう言う人が重篤な状態になり回復する可能性がなくなった時はどうなるのでしょうか?
医療チームは患者の家族に(そのような状態時に意識の疎通ができる人はいないので最も身近な存在である人が健康に関する代理人となります)回復の可能性がないことを伝えます。そして不毛な処置の中止ついて伝えて、その実行に移ります。
それが人工呼吸器の停止となるのです。不毛な処置と書きました。治療は治す医療。治せる望み、つまり回復の可能性がなくなれば、治療が治療でなくなり不毛な処置、日本で言う延命医療となるのです。みなさんは映画やドラマや小説で植物状態から奇跡的な回復をした話を何度も見聞きしたかもしれません。しかし現代医療は技術と診断機器の発展などからその奇跡的な回復の可能性をかなり正確に推測できるようになりました。だから感覚的な判断ではなく科学的根拠に基づき、治療が実を結ばない事を知る事ができるようになったのです。
人工呼吸器を止めるなんて殺人じゃないか!
と思う人もいるかも知れません。しかし北米ではこれは科学的判断に基づいた医療行為で殺人ではないのです。もちろん家族の方への心のケアなどはしっかり行うし、抜管後から死亡までの緩和ケアも十分行い、安らかな最期が送れるようにケアもしていきます。なので人工呼吸器を止める事で患者が苦しむ事はないのです。呼吸器をつけていてもつけていなくても避ける事ができない現実として死がそこにある状態では、呼吸器を止める事が殺人行為にならない理論が成り立つのです。
呼吸器をつけていてもつけていなくても死はそこまで迫っている、これが重要なポイントなのです。
続く