現行憲法の「前文」についてまず冒頭から違和感を感ずるのは、総じて文章構文及び表現が、どこか翻訳調の文体のように当方には思えることだ。
長い英文の翻訳ものによくある傾向が観られる。このことは、「日本国民は、政党に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われわれとわれわれの子孫のために諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」とのくだり迄、150字で一文になっている長い書き出しの部分に端的に表れている。
それはともかく、憲法「前文」は、国の在り方に関する国民の総意や決意・願望等憲法全体を律する基本原理を示すものである。この「前文」の前半部分で、この憲法は、「主権が国民に存すること」と「国政は国民の厳粛な信託によるものであり、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」との「主権在民」の理念を明確に示している。これは、民主主義の根幹をなす当然の理念の宣言であり、不変の鉄則である。
しかし、問題は「前文」の後半部分にある。「日本国民は、恒久の平和を念願し、イ、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、ロ、諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と書かれているこの部分である。恒久平和を念願しない国民は誰もいない。
だが、イの部分の「人間相互の関係を支配する崇高な理想」とは一体どんな理想か、文面からは読み取れないし、解らない国民は多いだろう。耳触りは良いが中身不明の表現で、この部分について解説した憲法関連書を調べて観たが、説得力のある解説は殆ど見当たらない。
ロの部分の決意は、「国の平和と安全保障」の基本に関わる極めて大切な文言である。にも拘わらず、前記の表現は、「近隣には邪心・邪悪な者はいないから、私達は近所の人を信じて生きます。」と一方的に宣言しているに等しい文言であり、あまりにも他力本願的で、現実的でない願望に過ぎない。このことは、卑近な例としては「拉致問題」「竹島・尖閣等の領土問題」「靖国問題がらみの反日運動」等の経緯・現況を観れば明らかだ。
現憲法制定以来、特に日本の近隣諸国が、平和を愛する国として、我国に対し「公正と信義」を示して来ているか否か、ケースにより当然異なる観方もあるが、総じていえば、答えは「否」であろう。今日世界の各地で散発している国際紛争の多くは、「当該国民の感情とは異なる形で、時の政府により、信義や公正が歪められ、利害の対立関係が深まって生じている。
利害が相反する関係であれば有る程、こうした国家間の関係はエンドレスに続く。だから、我国のみが、諸国の公正と信義を永久に信じて、「われらの安全と生存」を信じていいのか。大いに疑問である。
「前文」の最後の部分に「われわれは、いずれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の原則は、普遍的なものであり云々」の記述がある。ここで云う「政治道徳の原則」とは、前文中のどの部分の、どんな原則のことなのか、これも即答しにくい表現である。
ここでも、本稿の最初に触れた「人間相互の関係を支配する崇高な理想」の記述と同様、我々普通の国民が、普通にこの「前文」を読んだだけでは、読み取れない原則や理念・理想が、この憲法の基本原理の如く示されている。賢明な憲法擁護派の諸氏は、上記のような諸点について明確な理解をされているのだろう。だが、頑固爺にとっては大いなる疑問だらけである。
他にも「前文」についての疑問点は未だあるが、割愛して次回は憲法9条のことに関して記したい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます