こんにちは、尾張美也子です!

暮らしの中で感じたことを気ままに綴っていきます。

宮城県石巻へ  その2

2011年07月18日 | 議会
今日(7月18日)午後3時から、東3丁目の都営住宅集会所で市政報告のつどいをします。
その原稿を!と思っていましたが、実は娘の学校の夏祭りで昼間はしっかり母役ができました。

夜も、来客であっという間に夜中になって…

今、原稿作り、がんばってます。

さて、被災地体験記のその2です。

朝8時に出て、石巻市に着いたのは午後3時。
石巻市の日本共産党東部地区委員会が救援センターになって、たくさんの物資が届けられ、
全国から集まるボランティアの采配を行っています。


石巻は津波で市内の中心部役6割が流されたということです。
この地区委員会も根こそぎ流され、今は借りている場所です。石巻市議の水沢さんに、救援募金を渡しました。市議の水沢さんも、連日、復興救援のためにがんばっていました。

石巻の中心部も水につかり、まだ信号機も作動していないので、警察官の手旗信号です。
どおりで、東北自動車道を走っていると警察の車がやたらと多かったわけだ。
商店街の中心あたりはほとんど1階部分は水につかったので、繁華街のお店も
ほとんど閉まっています。高速を降りたところは津波がこなかったので、イオンなどの大型店がなにごともなかったようになっています。


これは、日和山という市内の高台からみた石巻です。ここまで逃げられた人は助かりました。これは、日吉山の展望台です。
ほとんどの建物が根こそぎなくなっています。津波がきたあと、一晩中パン、パンとあちこちで爆発音が起こり、火の手が上がったといっています。水と火の海だったようです。日和山からみた情景は、まるで戦火のあとのようで、言葉になりませんでした。
 日和山まで避難できた人は助かったけど、逃げ遅れた人や車が波に飲まれていくのが見えたそうです。屋根にのって流されている人も家と車の火の手が迫ってきて、焼け死ぬより溺れ死ぬほうがよいと水に飛び込み、九死に一生を得た人もいるそうです。車がどんどん流されてきて、家に突き刺さっていったとおっしゃっていました。

 石巻では、16万人の人口のうち、6000人が亡くなり、市内の主要な産業が流されて、商店街は4ヶ月たってもまだほとんど再開できない状況です。

宮城県の東部地区委員会の所轄の地域(気仙沼・女川・東松島・石巻)で、死者、行方不明者が1万人を超えています。これは、全体の死者・行方不明者の45%になります。

 石巻の漁港をみて、女川市にも行きました。石巻は水産加工業がたくさんありましたが、壊滅状態。くさった魚がいっぱいで、つい最近までは、かもめがいっぱい群れていたそうです。


女川市は、町立女川病院と湾の周りのかなり高台になっているところを除いて、町は壊滅状態でした。女川病院は、16メートルのところにあり、多くの方が避難されたそうですが、第2波の津波が20メートルだったので、病院の敷地を超えて、1階部分まで津浪にさらわれたそうです。駐車場にいた方は、波にさらわれ、病院の上の階にいた人は助かったそうです。
 女川にも原発がありますが、大丈夫でした。それは。、、原発を建設するときに、共産党が電源装置を高いところにおくようにと要求し、それが実って、津浪にやられなかったということです。

さて、夜中の1時すぎて、眠くなってきました。3時半からのサッカー観たい気もするけど、今夜はここでおやすみなさい。

続きは、また。
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