軽井沢のいろいろ~♪ 軽井沢で静かに暮らす 深山のイノシシ があれこれ見たこと聞いたこと

軽井沢に静かに暮らす深山のイノシシが 軽井沢の春夏秋冬 今昔、あれこれ・・ 見たまま聞いたまま書いてるよ

 軽井沢のいろいろ 軽井沢の昔・・ 江戸時代は・・

2021-03-12 | 避暑地 軽井沢のあれやこれ

 軽井沢の西側地域   追分地区では江戸時代の中山道追分宿の遺構として

 西側の桝形と言われる場所にあった茶屋跡  「 津軽屋(つがるや)」を活用して

 「 歴史と文学の里 」としての  アピールをしようと活動を始めた人たちがいるそうなんだ

 前にここで その 「 津軽屋(つがるや)」さんが 昭和30年代前半の台風の被災で

 歴史的な全様の一部が失われてしまったお話をしたけれど

 掲げられた 鏝絵の大看板が劣化していくのが ボクは気にかかっているんだ 

 そもそも軽井沢って江戸時代には 五街道のひとつ 中山道の宿場町で

 軽井沢、沓掛(中軽井沢)、ここ追分宿 と 3つの宿場街があって ここ追分宿から江戸方向に向かう

 北国街道(善光寺道=北国脇往還)も ここ 追分で合流していることから 西側方面の各宿場よりも

 通行する人の姿が 3宿場とも   多かっただろうことは間違いない

 だけど このところの平均気温が上昇気味と言われる近年でさえ

 寒冷地仕様の屋内でも、真冬の厳しさは相当なもの  

 直火(じかび=焚火など)や  囲炉裏や火鉢くらいしか見当たらないような暖の取り方で

 軽井沢の氷点下の季節を 当時の住人や旅人は どう凌いでいたんだろうね  

 テレビや映画の時代劇に出てくるような ご気楽な宿場の光景だったかどうかもわからないし 

 まして 津軽屋さんのあったと言われる 桝形を出た宿場外れや 集落(村)外れから

 ひと(人)気の無い山道に至ってからは なんだか・・   物騒な事もあっただろうしね・・

 汗びっしょりで 暑い季節に通行した旅人は 涼しい高冷峠道越えに歩が進んだだろうけれど

 真冬の凍結山路越えは   どんなに大変だったことかと思うんだ 

 江戸時代も後期になってからだそうだけれど 碓氷峠を上州(現群馬県)側に超えた山道の街道際に

 厳寒期、「接待所」と呼ばれる   峠越えの旅人と馬を休息させる為の施設が

   江戸の豪商の寄付によって設けられて 

 人にはお椀に温かい粥一杯が、馬には煮麦が(辺り一面凍りついて馬が食べられる自然のモノが何もないので)

 提供された時代もあったそうなんだ 

 同じ中山道の難所の峠 和田宿外れの和田峠には  当時の接待所の様子が復元建築で遺されているよ

 碓氷峠の街道古道の凍結は   どんな状態になっただろう・・

 そろそろ 街道歩きを楽しむ人の姿が現れる頃かな     

コメント
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