名利に使はれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
財多ければ、身を守るにまどし。害を賈ひ、累を招く媒なり。身の後には、金をして北斗を拄ふとも、人のためにぞわづらはるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらん人は、うたて、愚かなりとぞ見るべき。金は山に棄て、玉は淵に投ぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。
埋もれぬ名を長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ、位高く、やんごとなきをしも、すぐれたる人とやはいふべき。愚かにつたなき人も、家に生れ、時に逢へば、高き位に昇り、奢を極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから賤しき位に居り、時に逢はずしてやみぬる、また多し。偏に高き官・位を望むも、次に愚かなり。
智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉も残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは、人の聞きをよろこぶなり。誉むる人、毀る人、共に世に止まらず。伝へ聞かん人、またまたすみやかに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。誉はまた毀りの本なり。身の後の名、残りて、さらに益なし。これを願ふも、次に愚かなり。
但し、強ひて智を求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵出でては偽りあり。才能は煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より、賢愚・得失の境にをらざればなり。
迷ひの心をもちて名利の要を求むるに、かくの如し。万事は皆非なり。言ふに足らず、願ふに足らず。
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名声や利欲のために我が身をこき使って、自由な時間を持たず、一生を苦しんで生きるのは愚かである。
財産が多ければ、身を守ることが難しい。財産は危害を招きやっかいなことを起こす原因となる。
死後には、北斗七星に届くほどの財産を残したとしても、遺族にとっては相続争いの元になって迷惑なものである。愚かな人の目を楽しませる行為にしても、つまらないものだ。
大きな車、肥えた馬、金玉の飾りも、心ある人にとっては、愚かなものに見えるだろう。金銀は山にすて、玉は淵に投げるのがよい。利欲に惑うは、まったく愚かな人だ。
朽ちることのない名声を後世に残すことは確かに好ましいことではある。位が高く貴い身分に人が優れた人と言えるだろうか。愚かで才能の無い人でも、好い家柄の家に生まれて時代の波に乗れば、位高く栄華を極める者もいる。大変立派な人格者であっても、その人自身は位が低く、時代の波に乗れないこともあるのだ。そんなことを考えずに、ただ高い位を望むのも愚かなことである。
知性と精神面において世間から名声を得たいものではあるが、名声を得たいと思うことは、世間の評判に自己陶酔していることになるのだ。しかし、誉めてくれる人も、けなす人もそう長くはこの世にとどまらないものである。また、評判を伝え聞く人も長くこの世に残るわけではない。では、誰に対して恥じ、誰に対して自分のことを知ってもらいたいのか。名声を得ることは一方ではバッシングの原因にもなる。死語の名声などは無用なのだよ。そんなものを願うことはとても愚かなことなのだよ。
ただし、世間の評判のためでなく智そのものを求め、賢を願う人のために言えば、
知恵でて偽りある。才能は煩悩の増長したものだ。伝聞によって他人から学んだ智恵は、まことの智でない。ではいかなるものを智というべきか。可・不可は二つのものではなく、一つのものだ。いかなるものを善というか。まことの人は、智もなく、徳もなく、功績もなく、名声もない。このように真実の境地にある人を、誰が知り、誰が伝えることができようか。とはいっても、この真実の人が徳を隠し、愚者のように見せかけているのではない。本来的に、賢愚・得失の相対的な境地を超越しているからだ。
迷いの心をもって名利を求めると、以上のようになる。すべては否定されるべきもの。論ずる必要もなく願うこともない。
名声や地位は、仮の一時的な姿にしか過ぎないのです。人間、死んでしまえば全ては幻なのです。しかし、だからこそ人生は妙であり尊いのです。
財多ければ、身を守るにまどし。害を賈ひ、累を招く媒なり。身の後には、金をして北斗を拄ふとも、人のためにぞわづらはるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらん人は、うたて、愚かなりとぞ見るべき。金は山に棄て、玉は淵に投ぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。
埋もれぬ名を長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ、位高く、やんごとなきをしも、すぐれたる人とやはいふべき。愚かにつたなき人も、家に生れ、時に逢へば、高き位に昇り、奢を極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから賤しき位に居り、時に逢はずしてやみぬる、また多し。偏に高き官・位を望むも、次に愚かなり。
智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉も残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは、人の聞きをよろこぶなり。誉むる人、毀る人、共に世に止まらず。伝へ聞かん人、またまたすみやかに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。誉はまた毀りの本なり。身の後の名、残りて、さらに益なし。これを願ふも、次に愚かなり。
但し、強ひて智を求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵出でては偽りあり。才能は煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より、賢愚・得失の境にをらざればなり。
迷ひの心をもちて名利の要を求むるに、かくの如し。万事は皆非なり。言ふに足らず、願ふに足らず。
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名声や利欲のために我が身をこき使って、自由な時間を持たず、一生を苦しんで生きるのは愚かである。
財産が多ければ、身を守ることが難しい。財産は危害を招きやっかいなことを起こす原因となる。
死後には、北斗七星に届くほどの財産を残したとしても、遺族にとっては相続争いの元になって迷惑なものである。愚かな人の目を楽しませる行為にしても、つまらないものだ。
大きな車、肥えた馬、金玉の飾りも、心ある人にとっては、愚かなものに見えるだろう。金銀は山にすて、玉は淵に投げるのがよい。利欲に惑うは、まったく愚かな人だ。
朽ちることのない名声を後世に残すことは確かに好ましいことではある。位が高く貴い身分に人が優れた人と言えるだろうか。愚かで才能の無い人でも、好い家柄の家に生まれて時代の波に乗れば、位高く栄華を極める者もいる。大変立派な人格者であっても、その人自身は位が低く、時代の波に乗れないこともあるのだ。そんなことを考えずに、ただ高い位を望むのも愚かなことである。
知性と精神面において世間から名声を得たいものではあるが、名声を得たいと思うことは、世間の評判に自己陶酔していることになるのだ。しかし、誉めてくれる人も、けなす人もそう長くはこの世にとどまらないものである。また、評判を伝え聞く人も長くこの世に残るわけではない。では、誰に対して恥じ、誰に対して自分のことを知ってもらいたいのか。名声を得ることは一方ではバッシングの原因にもなる。死語の名声などは無用なのだよ。そんなものを願うことはとても愚かなことなのだよ。
ただし、世間の評判のためでなく智そのものを求め、賢を願う人のために言えば、
知恵でて偽りある。才能は煩悩の増長したものだ。伝聞によって他人から学んだ智恵は、まことの智でない。ではいかなるものを智というべきか。可・不可は二つのものではなく、一つのものだ。いかなるものを善というか。まことの人は、智もなく、徳もなく、功績もなく、名声もない。このように真実の境地にある人を、誰が知り、誰が伝えることができようか。とはいっても、この真実の人が徳を隠し、愚者のように見せかけているのではない。本来的に、賢愚・得失の相対的な境地を超越しているからだ。
迷いの心をもって名利を求めると、以上のようになる。すべては否定されるべきもの。論ずる必要もなく願うこともない。
名声や地位は、仮の一時的な姿にしか過ぎないのです。人間、死んでしまえば全ては幻なのです。しかし、だからこそ人生は妙であり尊いのです。