行雲流水

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「論語読みの論語知らず」にはなるな

2015年02月24日 | 法句経
意味深き経文(みおしえ)を
いくそたび口に誦(ず)すとも
身にもしこれを行わず
心、放逸(おこたり)にふけらば
沙門(ひじり)とよばん
そのあたえはあらず
まこと、むなしく
他人の牛をかぞうる
かの牧牛者(うしかい)にたとうべし (法句経第19番)


たとえ物知りで、良いことをたくさん覚えていても、
それを実行せず、
怠っていれば、
そんな人は沙門とは呼ばないのだ。
そう呼ばれる資格はない。
牛飼いが他人の牛を数えているようなものじゃ。


経文(みおしえ)を口にそらんずる
まこと少分(わずか)なりとも
身に行うこと法(のり)にかない
貪(むさぼり)と怒(いかり)と癡(おろかさ)とをすて
智慧は正しく
心よくほどけとき
この世にも著せず
かの世にも執せざるもの
彼こそ沙門(ひじり)の列(みち)に入らん (法句経第20番)



よいことを少ししか覚えていなくても
真理にしたがって行動し、
貪りと怒りと愚かさを捨てて、
正しく気をつけていて、
心が解脱して、
執著することの無い人は、
立派な沙門なのじゃ。



「論語読みの論語知らず」というように、知識はあっても、それが全く生かされていなければ、何にもなりません。お坊さんもそうです。中道を説くはずのお坊さんが、偏った考え方をもっていたり、戦前のように、戦争を肯定して人殺しに与したりしていたのは、当時の時代の流れとはいえ、いかがなものでしょうか。あるいは、真実を曲げて解釈して伝えたりすることも同じだと思います。親鸞聖人も弘法大師も、後世の人が、自分の言いたかったことを拡大解釈したり、まちがってとらえてしまうことを、恐れていたと思います。知識を実践することは大事ですが、正しく実践することが大事なのです。

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