行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

諸行無常

2014年02月11日 | 禅の心
諸行無常といえば、むなしいとか、虚無的なということではありません。諸行無常は、この世のすべてのものは、常に移り変わっていくということです。人が老いて、体が弱って、死んでいくというというのも諸行無常なら、赤ちゃんが生まれてすくすくと育っていくのも諸行無常です。
 会社が成長して大きくなっていくのも諸行無常ですが、大きくなって調子のいい時こそ要注意です。とても業績の良かった大きな会社が傾いて倒産してしまうのも、諸行無常です。
逆境の時もあれば順調な時もある。それが諸行無常の人生なのです。

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清水の舞台

2014年02月07日 | 禅の心
  かつては清水寺は北観音寺と呼ばれていました。有名な清水の舞台からは遺体を投げ捨てていました。つまり、清水の舞台の下は遺体安置所(?)だったわけです。平安時代の京都ではいたるところに風葬の習慣が見られ、清水の舞台の下もその一つだったのです。したがって、「清水の舞台から飛び降りる」のは死体で、死体になったつもりで物事に臨むという意味なのです。
 さて、清水の舞台の木組みは独特の組み方をしています。もし、木組みの一つに問題が生じた場合、それ一つだけ取り替えることはできません。木組み一つを取り替えるためには、清水の舞台をすべて解体しなければならないのです。これはまさに仏教思想なのです。何か不具合が生じたら、部品を一つ取り替えればいいという西洋的な考え方とはちがって、東洋では、部分の問題は全体の問題であると考えるからです。たとえば、腰が痛いというのは、腰だけの問題ではなく、体全体の問題であると考えるのです。
 私たち一人一人は、社会の構成員としてみな大切だというのが仏教思想なのです。清水の舞台の木組みに木がいろいろな形のものがあるように、いろんな人が集まって成り立っているのが人間社会なのです。

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山田無文老師の言葉

2014年02月04日 | 禅の心
「自分の人生は自ら切り開いていけ」「他人に迷惑をかけるな」こういう人生観は一応社会人として立派なことのようですが、実は非常に偏頗な個人主義で、これが一歩間違いますと、きわめてせまい利己主義になってしまいます。「自分の人生は自ら切り開いていけ」などといってみたところで、事実、人生が自分一人で切り開いていけるものでしょうか。親や先生や、先輩、友人、そして社会の皆さんのおかげではありませんか。なぜ、社会の皆さんに感謝する人間になれ」と教えられないのでしょうか。「他人に迷惑をかけるような人間になるな」といってみたところで、お互い凡夫のことですから、つねに失敗して人様に迷惑をかけることばかりです。ですから、「人に迷惑をおかけするが、そのかわり人の迷惑も喜んで引き受けるような人間になれ」となぜ希望されないのでしょうか。」

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