盗人宿

いまは、わかる方だけ、おいでいただければ。

天才

2019-01-07 06:00:47 | にゃんころ
天才とは、何でしょうか。

イチローの、こんなことばがあります。

 「ぼくは天才ではありません。
  自分はなぜそれができて、なぜそれができないか、わかっているからです」

これは、私なりに解釈すると、

 「自分でもわからないのに傑作を生み出せる」

人が天才、ということになります。

イチローは幼い頃から練習を繰り返し、持って生まれた才能を開花させました。
三遊亭圓生や立川談志は、いちど聴いた高座を完全に記憶して、稽古を重ねた噺家よりうまく演じました。
しかしいまは立川志らくが守っている談志の旧家には、談志が集めた膨大な資料が残っています。
談志は誰より天才に近かったと同時に、落語界で随一の勉強家でもありました。

では手塚治虫はどうでしょうか、
彼ももだえ苦しんだ人でした。
何度も「手塚はもう終わった」といわれながら、のたうち回って「ブラックジャック」や「火の鳥」などの傑作を生み出しました。
知の巨人といわれるニュートンもポアンカレもアインシュタインもエジソンも、とどのつまりは頭でこねくり回して理論や製品を生み出したにすぎません(それだけでもものすごい事ではありますが)。

すると私の定義する「天才」とは、モーツァルトやダヴィンチや山下清、ということになります。
いわゆる「神に愛された人」です。

将棋の羽生善治が、竜王を失って無冠になりました。
人は彼を天才と呼びますが、彼ほど(当時はまだ能力の低かった)パソコンで研究を重ねた棋士はいなかった。
競馬の武豊を人は天才と呼びますが、彼ほど練習熱心でしかも有力馬に恵まれた騎手はいません。

何をいいたいのか。
私は「天才」ということばを、安易に使いたくないのです。

もちろん、イチローや談志や羽生を悪くいいたいわけではありません。
類まれな天性に猛烈な修練を重ねたからこそ、彼らは卓越した存在でありえたのです。
彼らは「秀才」というべきでしょう。

天性にも恵まれず努力もそこそこ怠ってきた私には、彼らは雲の上の人たちです。
しかし「天才」ではない。
自分でもわからないのに傑作や秀作を生み出せる人こそ、天才と呼びたいと私は考えます。

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