私の父方の祖父は大工の棟梁、大叔父片岡春司は日大の建築科の第一期生。戦前の鉄道省の技師として新潟県小千谷周辺の信濃川発電所の建設工事のため赴任し、昭和27年の定年まで殆どをここで過ごした。この工事では戦前戦後を合わせて100名前後の犠牲者があり、今も立派な慰霊碑がたっている。
大叔父は93歳で亡くなって弔辞で後輩が述べたこと。戦前、発電所工事現場の事故で日本人朝鮮人の多くが被災した時に、たまたま居合わせた本省のお偉方が日本人から先に助けろと言った時に、大叔父は現地の責任者として日本人朝鮮人は関係ない重傷者から助けろと命じたそうだ。差別が嫌いだった。
あの時代奴隷のように徴用された朝鮮人に対しても差別意識を持たなかった大叔父。昔は学校の先生も、良家の子供には「さん付け」で呼び、大叔父のように大工の息子などは呼び捨てにされたそうだ。
大叔父は退職後スーパーゼネコンに天下りする。そこの社長が「片岡さん、新潟県にいらしたそうだが、今度新潟県の指名に入りたいので知り合いはいませんか。」と聞いてきた。丁度その時、新潟県知事をしていた岡田さんという人を戦前に何かで助けたことがあって、そのことが幸いしたそうだ。私の千葉の生家の建物は築60何年だがしっかりしている。8畳の部屋の天井は15ミリほどの板4枚で出来ている。大きな材料をたくさん使っているが新潟から貨車で運んだもので大叔父が岡田さんから貰ったものとか。
私は縁あって新潟県に婿入りしたわけだが、この家の本家の長男は戦後まもなく小千谷のこの工事現場の落盤事故で亡くなっている。なにか縁がある。
大叔父は93歳で亡くなって弔辞で後輩が述べたこと。戦前、発電所工事現場の事故で日本人朝鮮人の多くが被災した時に、たまたま居合わせた本省のお偉方が日本人から先に助けろと言った時に、大叔父は現地の責任者として日本人朝鮮人は関係ない重傷者から助けろと命じたそうだ。差別が嫌いだった。
あの時代奴隷のように徴用された朝鮮人に対しても差別意識を持たなかった大叔父。昔は学校の先生も、良家の子供には「さん付け」で呼び、大叔父のように大工の息子などは呼び捨てにされたそうだ。
大叔父は退職後スーパーゼネコンに天下りする。そこの社長が「片岡さん、新潟県にいらしたそうだが、今度新潟県の指名に入りたいので知り合いはいませんか。」と聞いてきた。丁度その時、新潟県知事をしていた岡田さんという人を戦前に何かで助けたことがあって、そのことが幸いしたそうだ。私の千葉の生家の建物は築60何年だがしっかりしている。8畳の部屋の天井は15ミリほどの板4枚で出来ている。大きな材料をたくさん使っているが新潟から貨車で運んだもので大叔父が岡田さんから貰ったものとか。
私は縁あって新潟県に婿入りしたわけだが、この家の本家の長男は戦後まもなく小千谷のこの工事現場の落盤事故で亡くなっている。なにか縁がある。