反出生主義への応答:生まれること産むことにノーと言う思想をどう考えるか
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森岡正博
2020/12/30 20:15
森岡正博
「反出生主義」という考え方が、哲学に親しむ人の間でにわかに注目を集めている。これは、私は生まれてこないほうが良かったとする考え方であり、人間は子どもを産まないほうが良いという考え方である。生まれてきたとしても苦しさやつらさに見舞われるのだから、そもそも生まれてこないのがいちばん良いし、子どもを産んで彼らに人生を強制させるのは間違っているという思想だ。
このような意見に対しては、生まれてきたら苦しみだけではなく、快楽や楽しさもあるではないかと反論したくなるだろう。しかしながら、苦しみも楽しさもある人生よりも、そのような人生が一切ない「無」のほうがより望ましいと論理的に考えられるから、そもそも人間は生まれるべきではないと反出生主義は主張するのである。
彼らが目指すのは、この考え方が広まって、子どもがだんだんと生まれなくなり、ひいては人類が絶滅することである。地球上から人間がいなくなってしまえば、社会問題はすべて解決し、苦しみを感じる人間はひとりもいなくなる。
このような考え方は古代ギリシアの文学や仏教思想にも見られたが、現代的な反出生主義は哲学者デイヴィッド・ベネターの『生まれてこないほうが良かった』(二〇〇六年)が起点となった。日本でもこの二、三年、学術書やシンポジウムなどで議論が行われている。
生まれてこないほうが良いという考え方は日本人にもなじみ深い。太宰治の『斜陽』では「生れて来ないほうがよかった」と主人公が語る。芥川龍之介の『河童』にも、自らの出生を拒否する河童の胎児が描かれる。
サブカルチャーにおいても広く見られ、古くは一九七〇年代にジョージ秋山の漫画『アシュラ』で主人公がこの言葉を叫び、アニメ『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』(一九九八年)にもその思想は現れた。ミュウツーは人間によって人工的に作成されたポケモンである。自分が強制的に生まれさせられたことに疑問を持ち、「誰が産めと頼んだ」と人間を恨んで逆襲を始める。本人の同意もなく、一方的にこの世に生みだされた不条理が見事に描かれ、ヒット作となった。
反出生主義は今、インターネットを中心に支持者を増やしている。背景には個人化する現代人の心象風景があるのかもしれない。その一つとして、同意の問題がある。
現代社会において他人に何かの働きかけをするときには、相手の同意を取ってから行うべきだとされる。医療行為でもインフォームドコンセント(十分な情報を得たうえで同意を与えること)は基本原理となった。最近では、性的関係を結ぶ前に明示的な性的同意を得ることが必要だとする考え方が登場している。
だとすると子どもを産むときにも子どもからの同意を得ることは必須であるが、それは原理的に不可能なので、われわれはそもそも子どもを産むべきではないのだという発想が出てくる。ミュウツーの恨みも、その辺りに起因すると言える。
反出生主義は理性を持った人間がみずからの生の根源を問うたときに必然的に出てくる解答の一つである、と私は考える。たしかに、人が同意なくこの世に生み出されることは、なにがしかの問題をはらんでいる。そして生きる苦しみを徹底して避けることを目指すならば、そもそも人間は生まれないのがいちばんよかったわけだし、子どもをこの世に生み出さないのが子どもたちにとってもっとも良いとは言える。
反出生主義に対する私の考え方を述べておこう。まず、生まれてきたことについて言えば、私はすでに生まれてしまっている。私は生まれてきたことを嘆きながら生きるのではなく、生まれてきて良かったと思えるためにどうすればいいのかを思索しつつ生きたい。
そして、もしわれわれが次世代を産み続けるのならば、生まれてきて良かったとすべての子どもたちが心から思えるような社会を彼らに用意する義務が課せられている。その義務を実際に果たしていくことでしか、われわれは反出生主義に応答できない。「誰が産めと頼んだ」という恨みを二度とこの世に発生させたくないとするわれわれの決意のみが、その答えとなり得るのだ。(終わり)
*共同通信配信で2020年12月に地方紙に掲載した記事。北日本新聞、高知新聞など多数に掲載。
*新聞記事なので一般市民向けに詳細は省きつつ全体像の解説をした。字数制限と一般紙の縛りから舌足らずになった点があることは承知しているので、以下に補足する。反出生主義側から見れば、出生主義の正当化がまったくできていないと見えるだろうが、そもそも私は反出生主義も出生主義も正当化できないとの立場なのでその批判は当てはまらない。この記事は反出生主義から発せられる問いへの「応答」(受け取り)を書いたものであり、出生主義が正しいことを書いたものではない。私は出生主義者ではない。この記事で私は反出生主義者に向かっては呼びかけておらず、出生をするであろう者たちに社会改善の義務を呼びかけている。この点に関する誤解に基づいた反応(「その恨みを発生させないために産むなと言っているのだ!」とかの)がツイッター等であるので注意してほしい。「綺麗事だ!」とかの反応もあるが、「綺麗事だ!」と言い放ったことで何か批判できた気持ちになっていることのほうが問題であろう。反出生主義が普遍的に正しいと考える読者は、下記のリンク「出生は普遍的に悪いとするタイプの反出生主義の問題点」にある文書を読んで考察してみてほしい。私自身の立場は誕生肯定であり、これは出生主義とは異なる(下記拙著参照)。
*「明示的な」性的同意とは、「暗黙の」性的同意は法的同意ではないとする考え方。スペインは今年この考え方で法改正された。
https://this.kiji.is/607745852477850721?c=39546741839462401
【参考リンク集】
森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』(筑摩選書、2020年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4480017151/
デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』(すずさわ書店、2017年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4795403600/
『現代思想』2019年11月号:特集:反出生主義を考える
https://www.amazon.co.jp/dp/4791713885/
David Benatar "The Human Predicament: A Candid Guide to Life's Biggest Questions" (Oxford University Press, 2017)
https://www.amazon.co.jp/dp/0190633816/
Ken Coates "Anti-Natalism: Rejectionist Philosophy from Buddhism to Benatar" (First Edition Design Publishing, 2016)
https://www.amazon.co.jp/dp/1506902405/
Kateřina Lochmanová (ed.) "History of Antinatalism: How Philosophy Has Challenged the Question of Procreation" (Independently published, 2020)
https://www.amazon.co.jp/dp/B088N93KYF
Antinatalism International
https://antinatalisminternational.com/
https://www.youtube.com/watch?v=uvg9O10nHtA
反出生主義の分類図
森岡正博
https://twitter.com/Sukuitohananika/status/1335107075970502657
出生は普遍的に悪いとするタイプの反出生主義の問題点
森岡正博
https://twitter.com/Sukuitohananika/status/1340942977774936064
私たちは「生まれてこないほうが良かったのか?」哲学者・森岡正博氏が「反出生主義」を新著で扱う理由
牧内昇平
https://www.businessinsider.jp/post-222520
「生まれてきたことを肯定するために」対談=森岡正博×佐藤岳詩『週刊読書人』2020年11月20日号
https://dokushojin.com/reading.html?id=7787
人類の絶滅は道徳に適うか?:デイヴィッド・ベネターの「誕生害悪論」とハンス・ヨーナスの倫理思想
吉本陵
https://www.philosophyoflife.org/jp/seimei201404.pdf
ベネター反出生主義は決定的な害を示すことができるか
⎯⎯The Human Predicament における死の害の検討⎯⎯
中川優一
http://philosophy-japan.org/wpdata/wp-content/uploads/2020/04/NAKAGAWAYUICHI.pdf
〈自分の存在を否定する〉ということについて
加藤秀一
https://meigaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=453&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1
『生まれてこないほうが良かったのか? 生命の哲学へ!』第一回読書会(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=wuFUuUSy0qU
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森岡正博
2020/12/30 20:15
森岡正博
「反出生主義」という考え方が、哲学に親しむ人の間でにわかに注目を集めている。これは、私は生まれてこないほうが良かったとする考え方であり、人間は子どもを産まないほうが良いという考え方である。生まれてきたとしても苦しさやつらさに見舞われるのだから、そもそも生まれてこないのがいちばん良いし、子どもを産んで彼らに人生を強制させるのは間違っているという思想だ。
このような意見に対しては、生まれてきたら苦しみだけではなく、快楽や楽しさもあるではないかと反論したくなるだろう。しかしながら、苦しみも楽しさもある人生よりも、そのような人生が一切ない「無」のほうがより望ましいと論理的に考えられるから、そもそも人間は生まれるべきではないと反出生主義は主張するのである。
彼らが目指すのは、この考え方が広まって、子どもがだんだんと生まれなくなり、ひいては人類が絶滅することである。地球上から人間がいなくなってしまえば、社会問題はすべて解決し、苦しみを感じる人間はひとりもいなくなる。
このような考え方は古代ギリシアの文学や仏教思想にも見られたが、現代的な反出生主義は哲学者デイヴィッド・ベネターの『生まれてこないほうが良かった』(二〇〇六年)が起点となった。日本でもこの二、三年、学術書やシンポジウムなどで議論が行われている。
生まれてこないほうが良いという考え方は日本人にもなじみ深い。太宰治の『斜陽』では「生れて来ないほうがよかった」と主人公が語る。芥川龍之介の『河童』にも、自らの出生を拒否する河童の胎児が描かれる。
サブカルチャーにおいても広く見られ、古くは一九七〇年代にジョージ秋山の漫画『アシュラ』で主人公がこの言葉を叫び、アニメ『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』(一九九八年)にもその思想は現れた。ミュウツーは人間によって人工的に作成されたポケモンである。自分が強制的に生まれさせられたことに疑問を持ち、「誰が産めと頼んだ」と人間を恨んで逆襲を始める。本人の同意もなく、一方的にこの世に生みだされた不条理が見事に描かれ、ヒット作となった。
反出生主義は今、インターネットを中心に支持者を増やしている。背景には個人化する現代人の心象風景があるのかもしれない。その一つとして、同意の問題がある。
現代社会において他人に何かの働きかけをするときには、相手の同意を取ってから行うべきだとされる。医療行為でもインフォームドコンセント(十分な情報を得たうえで同意を与えること)は基本原理となった。最近では、性的関係を結ぶ前に明示的な性的同意を得ることが必要だとする考え方が登場している。
だとすると子どもを産むときにも子どもからの同意を得ることは必須であるが、それは原理的に不可能なので、われわれはそもそも子どもを産むべきではないのだという発想が出てくる。ミュウツーの恨みも、その辺りに起因すると言える。
反出生主義は理性を持った人間がみずからの生の根源を問うたときに必然的に出てくる解答の一つである、と私は考える。たしかに、人が同意なくこの世に生み出されることは、なにがしかの問題をはらんでいる。そして生きる苦しみを徹底して避けることを目指すならば、そもそも人間は生まれないのがいちばんよかったわけだし、子どもをこの世に生み出さないのが子どもたちにとってもっとも良いとは言える。
反出生主義に対する私の考え方を述べておこう。まず、生まれてきたことについて言えば、私はすでに生まれてしまっている。私は生まれてきたことを嘆きながら生きるのではなく、生まれてきて良かったと思えるためにどうすればいいのかを思索しつつ生きたい。
そして、もしわれわれが次世代を産み続けるのならば、生まれてきて良かったとすべての子どもたちが心から思えるような社会を彼らに用意する義務が課せられている。その義務を実際に果たしていくことでしか、われわれは反出生主義に応答できない。「誰が産めと頼んだ」という恨みを二度とこの世に発生させたくないとするわれわれの決意のみが、その答えとなり得るのだ。(終わり)
*共同通信配信で2020年12月に地方紙に掲載した記事。北日本新聞、高知新聞など多数に掲載。
*新聞記事なので一般市民向けに詳細は省きつつ全体像の解説をした。字数制限と一般紙の縛りから舌足らずになった点があることは承知しているので、以下に補足する。反出生主義側から見れば、出生主義の正当化がまったくできていないと見えるだろうが、そもそも私は反出生主義も出生主義も正当化できないとの立場なのでその批判は当てはまらない。この記事は反出生主義から発せられる問いへの「応答」(受け取り)を書いたものであり、出生主義が正しいことを書いたものではない。私は出生主義者ではない。この記事で私は反出生主義者に向かっては呼びかけておらず、出生をするであろう者たちに社会改善の義務を呼びかけている。この点に関する誤解に基づいた反応(「その恨みを発生させないために産むなと言っているのだ!」とかの)がツイッター等であるので注意してほしい。「綺麗事だ!」とかの反応もあるが、「綺麗事だ!」と言い放ったことで何か批判できた気持ちになっていることのほうが問題であろう。反出生主義が普遍的に正しいと考える読者は、下記のリンク「出生は普遍的に悪いとするタイプの反出生主義の問題点」にある文書を読んで考察してみてほしい。私自身の立場は誕生肯定であり、これは出生主義とは異なる(下記拙著参照)。
*「明示的な」性的同意とは、「暗黙の」性的同意は法的同意ではないとする考え方。スペインは今年この考え方で法改正された。
https://this.kiji.is/607745852477850721?c=39546741839462401
【参考リンク集】
森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』(筑摩選書、2020年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4480017151/
デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』(すずさわ書店、2017年)
https://www.amazon.co.jp/dp/4795403600/
『現代思想』2019年11月号:特集:反出生主義を考える
https://www.amazon.co.jp/dp/4791713885/
David Benatar "The Human Predicament: A Candid Guide to Life's Biggest Questions" (Oxford University Press, 2017)
https://www.amazon.co.jp/dp/0190633816/
Ken Coates "Anti-Natalism: Rejectionist Philosophy from Buddhism to Benatar" (First Edition Design Publishing, 2016)
https://www.amazon.co.jp/dp/1506902405/
Kateřina Lochmanová (ed.) "History of Antinatalism: How Philosophy Has Challenged the Question of Procreation" (Independently published, 2020)
https://www.amazon.co.jp/dp/B088N93KYF
Antinatalism International
https://antinatalisminternational.com/
https://www.youtube.com/watch?v=uvg9O10nHtA
反出生主義の分類図
森岡正博
https://twitter.com/Sukuitohananika/status/1335107075970502657
出生は普遍的に悪いとするタイプの反出生主義の問題点
森岡正博
https://twitter.com/Sukuitohananika/status/1340942977774936064
私たちは「生まれてこないほうが良かったのか?」哲学者・森岡正博氏が「反出生主義」を新著で扱う理由
牧内昇平
https://www.businessinsider.jp/post-222520
「生まれてきたことを肯定するために」対談=森岡正博×佐藤岳詩『週刊読書人』2020年11月20日号
https://dokushojin.com/reading.html?id=7787
人類の絶滅は道徳に適うか?:デイヴィッド・ベネターの「誕生害悪論」とハンス・ヨーナスの倫理思想
吉本陵
https://www.philosophyoflife.org/jp/seimei201404.pdf
ベネター反出生主義は決定的な害を示すことができるか
⎯⎯The Human Predicament における死の害の検討⎯⎯
中川優一
http://philosophy-japan.org/wpdata/wp-content/uploads/2020/04/NAKAGAWAYUICHI.pdf
〈自分の存在を否定する〉ということについて
加藤秀一
https://meigaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=453&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1
『生まれてこないほうが良かったのか? 生命の哲学へ!』第一回読書会(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=wuFUuUSy0qU