餓死(がし、英: starvation)とは、食物の摂取を絶たれる(絶つ)ことにより、著しい栄養失調から死亡することを指す。
Contents
1 人間の餓死
2 日本における餓死
3 主な餓死事件・人物
3.1 餓死を含む事件
3.2 餓死寸前で保護された事件
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
人間の餓死[edit source]
成人では基礎代謝量のキロカロリー値は、体重のキログラム値の25倍から30倍、すなわち、体重60kgの男性なら1500キロカロリーから1800キロカロリー程度である。ヒトは日々の活動のエネルギー源として、肝臓と筋肉にグリコーゲンを蓄えているが、これは、絶食後約1日ですべて血糖(グルコース)となり、全身で使い果たされる。
グリコーゲンを使い果たした結果、血中グルコースが低下すると、肝臓中で脂肪酸の分解経路であるβ酸化回路が活性化され、肝臓中の脂肪がβ酸化を経てケトン体(β-ヒドロキシ酪酸、アセトン、アセトアセチルCoA)に変化し、血流中に流出する。アセトンを除くケトン体は、全身でグルコースに代わるエネルギー源として利用される。
したがって、栄養が欠乏するとまず肝臓や筋肉中のグリコーゲンが、ついで肝脂肪がエネルギー源として使われる。飢餓状態が更に進むと、体脂肪や皮下脂肪など肝臓以外の脂肪が血流に乗って肝臓へと運ばれ、これもまた、肝臓でβ酸化されてケトン体に変わり、同様にエネルギー源となる。これにより、ヒトは、理論上は水分の補給さえあれば絶食状態で2か月から3か月程度は生存が可能であり、この限界を越えれば餓死に至ることになる。
たとえば、体重70kg、体脂肪率20%と仮定したうえで、脂肪のカロリーを9kcal/g、絶食によって運動強度が下がった結果として低下する基礎代謝量を1200kcal/日とすると、70 kg × 0.2(体脂肪率)× 9 kcal/g / 1200 kcal/日 = 105日、となり、この計算だと、ヒトは絶食後3か月半ほど生存できることになる。ただし、これはあくまでエネルギーの計算上というだけで、実際には健康な状態を維持することは不可能に近い。
その理由は、ヒトの体内ではタンパク質、核酸、無機塩類、そのほかの様々な生理活性物質が緩やかに代謝回転しており、それらの新規合成のため、必須アミノ酸や必須脂肪酸、ミネラル類や、様々なビタミンなどを食物より摂取する必要があるからである。逆にこれらの摂取がない場合は筋肉などが分解し、別のタンパク質の合成のためのアミノ酸源として使われることになる。
食糧事情の悪い場所や時代において、心ならずも餓死する例は歴史上数多く見られる。また、ハンガー・ストライキの結果として餓死する場合もある。
日本における餓死[edit source]
千葉県松戸市の本土寺に保管されている『本土寺過去帳』には、300年に渡る関東における死者数の推移が記録されている[1]。その推移をグラフにすると、極端に死者数が増加し「山」や「峰」を形成する時代が散見される[2]。こうした「山」や「峰」が形成される年代は、他の史料から飢餓のあった年代と一致していることが判明しており[3]、飢饉による餓死が極めて多かった可能性が示唆される[4]。こうした日本中世の飢餓の多さの原因の一つとして、農業基盤の脆弱さが指摘される[5]。
「飢饉の一覧」も参照
この過去帳に記録される、中世における餓死は季節において一定の差異を見せる[6]。餓死者が最も多くなるのが、旧暦の春から初夏にかけてである[7]。春から初夏にかけての端境期が、食料が底をつく季節であることがその理由である[8]。そして、それは「中世の地域に生きる人の一般的なあり方」でもあった[9]。夏麦の収穫季節である5月を越えると、餓死者の数は劇的に減少している[10]。夏麦の収穫により飢えが緩和されることが餓死者減少の理由である[11]。中世の日本は寒冷化と飢餓に襲われた社会であり[12]、春になると毎年のように顕著な食料不足に陥り、慢性的な飢餓に襲われていた[13]。
日本では第二次世界大戦を通して、戦死者よりも多い数の餓死者が発生した。太平洋戦争における日本兵の死者は250万人だが、この内、7割もが広義での餓死者であり、これは太平洋において戦域が拡大し過ぎたために、これらの餓死者が続出することになるが、別の地域(内国や遊兵)では、配給上、食料過多におちいる兵士も出ている[14]。終戦直後には法令遵守の立場からヤミ米を拒否し、配給だけで生活しようとして餓死した山口良忠判事が有名となった。食糧管理法を遵守して餓死した者として、山口の他には東京高校ドイツ語教授の亀尾英四郎[15]、青森地方裁判所判事の保科徳太郎[16]の名が伝えられている[17]。
一方当時と比べ、飽食とも言われる世であるはずが、生活保護を受けず、あるいは受けられずに餓死する例、子供が保護者から虐待を受け食事を与えられずに餓死する事件、拒食症が原因で餓死する事例が発生している。前者の例は格差の増大の例とされることもあり、拒食症の事例では、拒食症患者全体の2割が自殺も含め、最終的には死亡に至っている。
また、2017年人口動態統計によると[18]「食糧の不足(X53)」の死亡者数は22人(男性:17人、女性:5人)である。
「生活保護問題」も参照
主な餓死事件・人物[edit source]
日本国内に関しては国名を省く。
伯夷・叔斉(古代中国・殷代末期)
良栄丸遭難事故(1926年)
グスタフ・フラトー(1945年、ナチス・ドイツ) - ホロコーストによるもの
亀尾英四郎 (1945年)
山口良忠(1947年)
国民防衛軍事件(1951年、韓国)
伊勢崎市同居女性餓死事件(2001年)
門司餓死事件(2006年)
大阪2児餓死事件(2010年)
大阪元資産家姉妹孤独死事件(2011年)
餓死を含む事件[edit source]
貰い子殺人(太平洋戦争以前-1955年頃?)
寿産院事件(1944年-1948年)
尖閣諸島戦時遭難事件(1945年)
マルク・デュトルー事件(1995年)
西淀川区女児虐待死事件(2009年)
餓死寸前で保護された事件[edit source]
巣鴨子供置き去り事件(1988年)
岸和田中学生虐待事件(2003年)
シュティルナーの哲学は、シュティルナーと同様に青年ヘーゲル派に属していたカール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスにも多大な影響を与えており、エンゲルスは「私たちはシュティルナーの到達した地点から出発しなければならない。そしてそれをひっくり返さなければならない」と述べ、「利己主義による共産主義」というものを提起している[1]。マルクスやエンゲルスは、主にシュティルナーの思想に見られるニヒリズム的傾向を批判しているが(『ドイツ・イデオロギー(第3篇 聖マックス)』)、今日の研究では、彼らの批判は、シュティルナーの哲学理論を理解していなかったことによることが指摘されている。『ドイツ・イデオロギー』では、シュティルナーに対する批判、反駁が強く行われていた。
また、シュティルナーはアナキストは自称していなかったものの、前記の徹底したエゴイズムの立場から、個人の価値を阻害する国家権力や圧力体系としてのあらゆる権力を唯一者に対して否定する。従ってシュティルナーの思想は、後続世代の個人主義的アナキズムに深い影響を与えることとなった。シュティルナーは『唯一者とその所有』において、「エゴイストの連合」なるものの成立を提唱している。
エドゥアルト・フォン・ハルトマンの無意識者の思想はもちろんのこと、自我の超克を求めていたという点からは、フリードリヒ・ニーチェの超人の概念にも影響を与えたといえるが、ニーチェ自身がシュティルナーの思想について言及している点は確認されていない。この点に関してはフリードリヒ・ニーチェとマックス・シュティルナーとの関係性の記事を参照されたい。実存主義哲学の先駆者としては、セーレン・キェルケゴールとほぼ同時期に「唯一者(独: der Einzige)(1844年)」としての自我を全ての思考と行動の基礎に据えようとした点が特筆されるべきである。キェルケゴールによる「単独者(独: der Einzelne)」の概念は、『死に至る病』(1849年)において初めて提出されたものであった。
生涯
シュティルナーは、バイロイトで楽器職人の子として生まれた。小さい頃から、ラテン語やフランス語などに親しみ、優秀であった。彼の通っていた高校が後に老ヘーゲル派を代表する学者・ゲオルク・アンドレアス・ガプラーが校長を務めていた学校である、イムホーフ高校であるのも受けて、当時ヘーゲル哲学の牙城・ベルリン大学に進学。たちまち哲学、特にヘーゲルを中心とするドイツ観念論の虜となるが、かねてから病気療養中の母のために、退学を余儀なくされる。
その後、いくつかの大学に断続的に在籍し、教員資格を手にし、1839年から高等学校の語学と歴史の教職を手にし主著『唯一者とその所有』を書き上げる。生涯ベルリンで過ごした、同時にこのころから「フライエン("Die Freien"「自由人」の意)」と呼ばれていた青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)の人物を中心に、軍人・芸術家・学生などの人物らと酒場で交わり、自由や政治について語り合った。このグループは時として酒乱が高じた振る舞いもした。このグループらと交わり、ブルーノ・バウアーらと共に中心的な人物となる。このグループとの交流により、やがて無政府主義的な考え方が生じたといえる。他にマルクスが主宰する「ライン新聞」に「芸術と国家」「愛の国家についての試論」などを発表。ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハやバウアーからも一目を置かれる存在(あるいは後には論敵に)となる。シュティルナーの自由人ぶりが高じ、無神論的な奇抜な自身の結婚式を行い、夫婦で始めた商売が失敗して離縁され、それが機縁で1845年に教職を辞す羽目ともなる。
彼は翻訳などで生計を立てようとしたが、貧困に苦しみ、孤独のうちに死去した(餓死したとされている)。遺体は引き取り手がなかったため、かつての盟友ブルーノ・バウアーが引き取り、バウアーによって葬られた。主著『唯一者とその所有』は、マルクスとエンゲルスの共著『ドイツ・イデオロギー』が多くのページを割いて批判の試みをしていることからも分かるように、シュティルナーの歩んだ孤独な生涯に反して、その思想は当時の思想家たちに多くの議論を巻き起こしたといえる。
マックス・シュティルナー(Max Stirner, 1806年10月25日 - 1856年6月26日)は、ドイツの哲学者
Frequently the debates would take place at Hippel's, a wine bar in Friedrichstraße, attended by among others Marx and Engels, who were both adherents of Feuerbach at the time. Stirner met with Engels many times and Engels even recalled that they were "great friends",[18] but it is still unclear whether Marx and Stirner ever met. It does not appear that Stirner contributed much to the discussions, but he was a faithful member of the club and an attentive listener.[19] The most-often reproduced portrait of Stirner is a cartoon by Engels, drawn forty years later from memory at biographer Mackay's request. It is highly likely that this and the group sketch of Die Freien at Hippel's are the only firsthand images of Stirner. Stirner worked as a teacher in a school for young girls owned by Madame Gropius[20] when he wrote his major work, The Ego and Its Own, which in part is a polemic against Feuerbach and Bauer, but also against communists such as Wilhelm Weitling and the anarchist Pierre-Joseph Proudhon. He resigned from his teaching position in anticipation of controversy from this work's publication in October 1844.
Stirner married twice. His first wife was Agnes Burtz (1815–1838), the daughter of his landlady, whom he married on 12 December 1837. However, she died from complications with pregnancy in 1838. In 1843, he married Marie Dähnhardt, an intellectual associated with Die Freien. They divorced in 1846. The Ego and Its Own was dedicated "to my sweetheart Marie Dähnhardt". Marie later converted to Catholicism and died in 1902 in London.
After The Ego and Its Own, Stirner wrote Stirner's Critics and translated Adam Smith's The Wealth of Nations and Jean-Baptiste Say's Traite d'Economie Politique into German to little financial gain. He also wrote a compilation of texts titled History of Reaction in 1852. Stirner died in 1856 in Berlin from an infected insect bite and it is said that Bruno Bauer was the only Young Hegelian present at his funeral, held at the Friedhof II der Sophiengemeinde Berlin.
Philosophy
Contents
1 人間の餓死
2 日本における餓死
3 主な餓死事件・人物
3.1 餓死を含む事件
3.2 餓死寸前で保護された事件
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
人間の餓死[edit source]
成人では基礎代謝量のキロカロリー値は、体重のキログラム値の25倍から30倍、すなわち、体重60kgの男性なら1500キロカロリーから1800キロカロリー程度である。ヒトは日々の活動のエネルギー源として、肝臓と筋肉にグリコーゲンを蓄えているが、これは、絶食後約1日ですべて血糖(グルコース)となり、全身で使い果たされる。
グリコーゲンを使い果たした結果、血中グルコースが低下すると、肝臓中で脂肪酸の分解経路であるβ酸化回路が活性化され、肝臓中の脂肪がβ酸化を経てケトン体(β-ヒドロキシ酪酸、アセトン、アセトアセチルCoA)に変化し、血流中に流出する。アセトンを除くケトン体は、全身でグルコースに代わるエネルギー源として利用される。
したがって、栄養が欠乏するとまず肝臓や筋肉中のグリコーゲンが、ついで肝脂肪がエネルギー源として使われる。飢餓状態が更に進むと、体脂肪や皮下脂肪など肝臓以外の脂肪が血流に乗って肝臓へと運ばれ、これもまた、肝臓でβ酸化されてケトン体に変わり、同様にエネルギー源となる。これにより、ヒトは、理論上は水分の補給さえあれば絶食状態で2か月から3か月程度は生存が可能であり、この限界を越えれば餓死に至ることになる。
たとえば、体重70kg、体脂肪率20%と仮定したうえで、脂肪のカロリーを9kcal/g、絶食によって運動強度が下がった結果として低下する基礎代謝量を1200kcal/日とすると、70 kg × 0.2(体脂肪率)× 9 kcal/g / 1200 kcal/日 = 105日、となり、この計算だと、ヒトは絶食後3か月半ほど生存できることになる。ただし、これはあくまでエネルギーの計算上というだけで、実際には健康な状態を維持することは不可能に近い。
その理由は、ヒトの体内ではタンパク質、核酸、無機塩類、そのほかの様々な生理活性物質が緩やかに代謝回転しており、それらの新規合成のため、必須アミノ酸や必須脂肪酸、ミネラル類や、様々なビタミンなどを食物より摂取する必要があるからである。逆にこれらの摂取がない場合は筋肉などが分解し、別のタンパク質の合成のためのアミノ酸源として使われることになる。
食糧事情の悪い場所や時代において、心ならずも餓死する例は歴史上数多く見られる。また、ハンガー・ストライキの結果として餓死する場合もある。
日本における餓死[edit source]
千葉県松戸市の本土寺に保管されている『本土寺過去帳』には、300年に渡る関東における死者数の推移が記録されている[1]。その推移をグラフにすると、極端に死者数が増加し「山」や「峰」を形成する時代が散見される[2]。こうした「山」や「峰」が形成される年代は、他の史料から飢餓のあった年代と一致していることが判明しており[3]、飢饉による餓死が極めて多かった可能性が示唆される[4]。こうした日本中世の飢餓の多さの原因の一つとして、農業基盤の脆弱さが指摘される[5]。
「飢饉の一覧」も参照
この過去帳に記録される、中世における餓死は季節において一定の差異を見せる[6]。餓死者が最も多くなるのが、旧暦の春から初夏にかけてである[7]。春から初夏にかけての端境期が、食料が底をつく季節であることがその理由である[8]。そして、それは「中世の地域に生きる人の一般的なあり方」でもあった[9]。夏麦の収穫季節である5月を越えると、餓死者の数は劇的に減少している[10]。夏麦の収穫により飢えが緩和されることが餓死者減少の理由である[11]。中世の日本は寒冷化と飢餓に襲われた社会であり[12]、春になると毎年のように顕著な食料不足に陥り、慢性的な飢餓に襲われていた[13]。
日本では第二次世界大戦を通して、戦死者よりも多い数の餓死者が発生した。太平洋戦争における日本兵の死者は250万人だが、この内、7割もが広義での餓死者であり、これは太平洋において戦域が拡大し過ぎたために、これらの餓死者が続出することになるが、別の地域(内国や遊兵)では、配給上、食料過多におちいる兵士も出ている[14]。終戦直後には法令遵守の立場からヤミ米を拒否し、配給だけで生活しようとして餓死した山口良忠判事が有名となった。食糧管理法を遵守して餓死した者として、山口の他には東京高校ドイツ語教授の亀尾英四郎[15]、青森地方裁判所判事の保科徳太郎[16]の名が伝えられている[17]。
一方当時と比べ、飽食とも言われる世であるはずが、生活保護を受けず、あるいは受けられずに餓死する例、子供が保護者から虐待を受け食事を与えられずに餓死する事件、拒食症が原因で餓死する事例が発生している。前者の例は格差の増大の例とされることもあり、拒食症の事例では、拒食症患者全体の2割が自殺も含め、最終的には死亡に至っている。
また、2017年人口動態統計によると[18]「食糧の不足(X53)」の死亡者数は22人(男性:17人、女性:5人)である。
「生活保護問題」も参照
主な餓死事件・人物[edit source]
日本国内に関しては国名を省く。
伯夷・叔斉(古代中国・殷代末期)
良栄丸遭難事故(1926年)
グスタフ・フラトー(1945年、ナチス・ドイツ) - ホロコーストによるもの
亀尾英四郎 (1945年)
山口良忠(1947年)
国民防衛軍事件(1951年、韓国)
伊勢崎市同居女性餓死事件(2001年)
門司餓死事件(2006年)
大阪2児餓死事件(2010年)
大阪元資産家姉妹孤独死事件(2011年)
餓死を含む事件[edit source]
貰い子殺人(太平洋戦争以前-1955年頃?)
寿産院事件(1944年-1948年)
尖閣諸島戦時遭難事件(1945年)
マルク・デュトルー事件(1995年)
西淀川区女児虐待死事件(2009年)
餓死寸前で保護された事件[edit source]
巣鴨子供置き去り事件(1988年)
岸和田中学生虐待事件(2003年)
シュティルナーの哲学は、シュティルナーと同様に青年ヘーゲル派に属していたカール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスにも多大な影響を与えており、エンゲルスは「私たちはシュティルナーの到達した地点から出発しなければならない。そしてそれをひっくり返さなければならない」と述べ、「利己主義による共産主義」というものを提起している[1]。マルクスやエンゲルスは、主にシュティルナーの思想に見られるニヒリズム的傾向を批判しているが(『ドイツ・イデオロギー(第3篇 聖マックス)』)、今日の研究では、彼らの批判は、シュティルナーの哲学理論を理解していなかったことによることが指摘されている。『ドイツ・イデオロギー』では、シュティルナーに対する批判、反駁が強く行われていた。
また、シュティルナーはアナキストは自称していなかったものの、前記の徹底したエゴイズムの立場から、個人の価値を阻害する国家権力や圧力体系としてのあらゆる権力を唯一者に対して否定する。従ってシュティルナーの思想は、後続世代の個人主義的アナキズムに深い影響を与えることとなった。シュティルナーは『唯一者とその所有』において、「エゴイストの連合」なるものの成立を提唱している。
エドゥアルト・フォン・ハルトマンの無意識者の思想はもちろんのこと、自我の超克を求めていたという点からは、フリードリヒ・ニーチェの超人の概念にも影響を与えたといえるが、ニーチェ自身がシュティルナーの思想について言及している点は確認されていない。この点に関してはフリードリヒ・ニーチェとマックス・シュティルナーとの関係性の記事を参照されたい。実存主義哲学の先駆者としては、セーレン・キェルケゴールとほぼ同時期に「唯一者(独: der Einzige)(1844年)」としての自我を全ての思考と行動の基礎に据えようとした点が特筆されるべきである。キェルケゴールによる「単独者(独: der Einzelne)」の概念は、『死に至る病』(1849年)において初めて提出されたものであった。
生涯
シュティルナーは、バイロイトで楽器職人の子として生まれた。小さい頃から、ラテン語やフランス語などに親しみ、優秀であった。彼の通っていた高校が後に老ヘーゲル派を代表する学者・ゲオルク・アンドレアス・ガプラーが校長を務めていた学校である、イムホーフ高校であるのも受けて、当時ヘーゲル哲学の牙城・ベルリン大学に進学。たちまち哲学、特にヘーゲルを中心とするドイツ観念論の虜となるが、かねてから病気療養中の母のために、退学を余儀なくされる。
その後、いくつかの大学に断続的に在籍し、教員資格を手にし、1839年から高等学校の語学と歴史の教職を手にし主著『唯一者とその所有』を書き上げる。生涯ベルリンで過ごした、同時にこのころから「フライエン("Die Freien"「自由人」の意)」と呼ばれていた青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)の人物を中心に、軍人・芸術家・学生などの人物らと酒場で交わり、自由や政治について語り合った。このグループは時として酒乱が高じた振る舞いもした。このグループらと交わり、ブルーノ・バウアーらと共に中心的な人物となる。このグループとの交流により、やがて無政府主義的な考え方が生じたといえる。他にマルクスが主宰する「ライン新聞」に「芸術と国家」「愛の国家についての試論」などを発表。ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハやバウアーからも一目を置かれる存在(あるいは後には論敵に)となる。シュティルナーの自由人ぶりが高じ、無神論的な奇抜な自身の結婚式を行い、夫婦で始めた商売が失敗して離縁され、それが機縁で1845年に教職を辞す羽目ともなる。
彼は翻訳などで生計を立てようとしたが、貧困に苦しみ、孤独のうちに死去した(餓死したとされている)。遺体は引き取り手がなかったため、かつての盟友ブルーノ・バウアーが引き取り、バウアーによって葬られた。主著『唯一者とその所有』は、マルクスとエンゲルスの共著『ドイツ・イデオロギー』が多くのページを割いて批判の試みをしていることからも分かるように、シュティルナーの歩んだ孤独な生涯に反して、その思想は当時の思想家たちに多くの議論を巻き起こしたといえる。
マックス・シュティルナー(Max Stirner, 1806年10月25日 - 1856年6月26日)は、ドイツの哲学者
Frequently the debates would take place at Hippel's, a wine bar in Friedrichstraße, attended by among others Marx and Engels, who were both adherents of Feuerbach at the time. Stirner met with Engels many times and Engels even recalled that they were "great friends",[18] but it is still unclear whether Marx and Stirner ever met. It does not appear that Stirner contributed much to the discussions, but he was a faithful member of the club and an attentive listener.[19] The most-often reproduced portrait of Stirner is a cartoon by Engels, drawn forty years later from memory at biographer Mackay's request. It is highly likely that this and the group sketch of Die Freien at Hippel's are the only firsthand images of Stirner. Stirner worked as a teacher in a school for young girls owned by Madame Gropius[20] when he wrote his major work, The Ego and Its Own, which in part is a polemic against Feuerbach and Bauer, but also against communists such as Wilhelm Weitling and the anarchist Pierre-Joseph Proudhon. He resigned from his teaching position in anticipation of controversy from this work's publication in October 1844.
Stirner married twice. His first wife was Agnes Burtz (1815–1838), the daughter of his landlady, whom he married on 12 December 1837. However, she died from complications with pregnancy in 1838. In 1843, he married Marie Dähnhardt, an intellectual associated with Die Freien. They divorced in 1846. The Ego and Its Own was dedicated "to my sweetheart Marie Dähnhardt". Marie later converted to Catholicism and died in 1902 in London.
After The Ego and Its Own, Stirner wrote Stirner's Critics and translated Adam Smith's The Wealth of Nations and Jean-Baptiste Say's Traite d'Economie Politique into German to little financial gain. He also wrote a compilation of texts titled History of Reaction in 1852. Stirner died in 1856 in Berlin from an infected insect bite and it is said that Bruno Bauer was the only Young Hegelian present at his funeral, held at the Friedhof II der Sophiengemeinde Berlin.
Philosophy