二日酔いを意味する英語の「はんぐおーば(a hangover)」
まあ“酔っ払い”の言うこと。by.NA-094
はんぐおーば
これは、カルトが、もたらした世界!?
まだ20世紀だった、1990年代において…。
ほとんど社会への関心をもつこともなかった人間ですら、
無視することもできない出来事があった。
その1つが、阪神淡路大震災(1995年1月17日)であったが、
その2ヶ月後、また日本国内において、
それまでにないテロ事件、
地下鉄サリン事件(1995年3月20日)が発生。
これは、宗教団体、オウム真理教によるものであり。
平日(月曜日)の通勤時間帯(午前8時ごろ)、
東京都内の地下鉄、車内で、
猛毒のサリンが散布されるというものだった。
このサリンとは、ただの毒物でなく。
化学兵器、つまり、軍などが“兵器”として用いることを、
前提とした殺傷力をもつ化学物質であり。
通常の武器などとは異なり、簡単に入手できるものではなかった。
そうでなくても、日本国内においては、
銃器や爆薬の入手だって、簡単でなく。
明確な意図をもって、
オウム真理教の関係者らが製造したものだった。
この事件は、カルト(宗教カルトや政治カルト)という存在について、
多くの人たちが考えさせられるものとなり。
事件発生以降、社会が動揺するものとなった。
いつも、通勤や労働に追い立てられ、
煮詰まっていくような生活にあれば、
誰彼かまわず、敵意や憎悪を向けたくもなるときもあるけど。
ただ一方的に、人を殺傷できる薬物、
それも化学兵器レベルのものを、
無抵抗で、なんの準備もない一般市民へと向ける…というのは、
あきらかに、一線を超えたものとなる。
当時、ニュースやワイドショー、週刊誌などによって、
この事件について、わかった気になっていたけど。
今、あらためて言葉にしてみると、“怖しく”なる。
宗教とカルトは、似て非なるものだが、事態を複雑にしている要因は、
一般的な宗教団体と、カルト団体(宗教カルト)が、
同じように扱われていることにもある。
日本国内における宗教法人数は、18万1400以上あるけど、
その中には、いくつのカルト団体が紛れているのか?…は分からない。
何故、宗教カルトのようなニセモノの存在は、脅威なのか?
それは、本物が貶められていくから…。
カルトやヘイトは、
人々を間違った認識へと誘う(いざなう)ものであり。
毎回、このような騒ぎが、引き起こされるのは煩わしく。
ある意味、社会を破壊する忌むべき存在。
…だから、この事件以降の社会において、
カルトの存在が受け入れられることなど、
あり得ないものだと思っていた。
しかし…(以前にも記したものとなるけど)。
一昨年(2022年)、7月8日、
安倍晋三、元首相が、白昼に殺害されたとき。
その犯人、山上徹也(当時41才:元、海上自衛官)から、
「ある宗教団体の幹部を殺害しようとしたが、できなかったので、
元、総理を、銃で撃つことにした」
…という殺害動機が語られたことが契機となり。
亡くなった安倍晋三、元首相は、祖父である岸信介から、
三代に及ぶ、統一教会との“つながり”をもっていたことが発覚していく。
そして、長年、政権与党であり続けた自由民主党(自民党)は、
「保守」を、うたい文句としながら、
反日思想のカルト団体、統一教会(世界平和統一家庭連合)と、
“べったり”とつながっており。
国民の味方であるかのように偽装しながら、
裏切り続けてきたことが知られていく。
統一教会との“つながり”が疑われるのは、
野党の勢力である“維新”も同じようなものがあり。
2022年7月31日、
日本維新の会、議員13人が、統一教会と接点。
藤田幹事長ら党幹部も、関連団体イベントに参加しており。
その存在には、不安を感じさせる。
さらに言えば、自由民主党(自民党)と連立政権にある、
与党、公明党の母体となっている、
宗教団体、創価学会の池田大作(95才)が亡くなったとき。
フミオ(当時66才)…、
いや、岸田文雄は、内閣総理大臣として、弔文を出している。
創価学会は、仏教系の宗教団体(カルト?)となり。
政治へのアプローチ自体は、1955年ごろから行われていた。
政党のバックボーン(背景)が宗教団体となっていることは、
憲法20条「政教分離」を考えれば、あり得ないところであり。
この国の首相(内閣総理大臣)が、政教分離について、
なにも考えていなかったという事実には、重い気分にもなった。
余談だが…。
この創価学会の雑誌(オピニオン誌)「潮」へと記していたのが、
テレビ番組などのコメンテーターとして出演していた、
国際政治学者の、ミウラ〇リ氏であり。
彼女は、統一教会への高額献金(宗教被害)によって、
生活苦にあった宗教二世へと、
「親が競馬でスッたって同じ」…と発言するなど、
その言動が、宗教被害者に対して、冷酷だったのは、
(宗教勢力としての)与党側の人間だからでしかなく。
政治学者としての発言にも疑わしいものが少なくない。
※最近は、話題となることも少なくなったけど、ね。
国家の動向を決めるエラい人たちが、
己の利得(組織票)から、統一教会のような団体との“つながり”を求め、
“骨抜き”にされていれば、
どのような政策や公約すらも、本意が分からなくなる。
蛇足:
以前にも記したけど。
民主的な国民選挙が、キチンと行われている先進国は、
色々な選挙においても、投票率が低くなる傾向にあるとも聞く。
それに、選挙前のテレビ番組などで語られる、
「みんなで選挙に行こう!」のようなスローガンも、
どこか陳腐に思え、国民の権利でもある投票も煩わしくなる。
どのような国家においても、長期政権でなければ出来ないことはあり。
このままの生活が維持されるのであれば、
政権与党にある政党に続投してもらえるのが、都合がいい…とも思っていた。
しかし、政権を任されている与党が、有権者と向き合うこともなく、
反社会的な宗教カルトから得られる組織票を望み、
その活動を黙認していたとすれば、職務意識や倫理観の欠如であり。
その政治性は、かなり疑わしく、危険なものとなり。
看過できなくなる。
…とは言え、
わざわざ休みの日に、投票所へと、足を運ぶのだって、煩わしく。
統一教会(世界平和統一家庭連合)とつながっていた、
自由民主党や公明党、維新などは、(本当に)最悪のものであり。
どこの政党も問題ばかり。
ちなみに、統一教会との“つながり”を否定できる政党は、共産党となる。
これは、統一教会と自民党とを結びつけたものが、
反共産主義であったため。
そして、もう一つ思いつくのが、れいわ新選組。
こんな状況での、“一票の重み”は、決して軽くもなく。
“誰か”に投票するということは、
それ以外の“誰か”に投票しないということでもあり。
投票所に行かないのとでは大きく違う。
社会にとって“有害”なものしかないのなら、
毒の少ないものを…ともなり。
有権者に与えられた一票の権限は、地獄の選択にも思えてくる。
…でも行かないと、もっと地獄です。
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