南朝皇居は、元、吉水院(きっすいいん)と称し、今から約1300年前の白鳳年間(650~654年)に役行者の創立と伝えるきわめて古い吉野修験宗・金峯山寺の僧坊であった。延元元年=建武3年(1336年)京の花山院より免れた御醍醐天皇が吉野御潜幸になり吉水院宗信の援護のもと、ここを南朝の皇居(行宮)と定められたのである。
明治維新の廃仏稀釈で、明治政府から強制的に明治8年に神社(吉水神社)に変更させられた。 重要文化財の宝庫で、 南朝の古文書・楽器・武具等ゆかりの宝物が数多く残されています。
[所在地:奈良県吉野郡吉野町吉野山]
<アクセス>近鉄吉野駅からロープウェイ(5分)で吉野山駅(約5分)、吉野山駅から徒歩20分
▼吉水院の碑
▼南朝の皇居(行宮)
▼建武の中興によって鋳造された貨幣(時価1枚1億円の金貨)
2013/04/09 訪問
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吉野山の戦 元弘3年(1333年)
護良(もりよし)親王,金峰山寺僧兵ら1,000騎余で、吉野山で挙兵し、吉野山城(金峰山寺城)に龍城する。御家人の二階堂貞藤(にかいどうさだふじ)率いる鎌倉幕府軍約60,000騎が押し寄せ、吉野山城炎上し、親王、紀州高野山へ落ち延びる。
吉野行宮への襲撃 正平3年(1348年)
四条畷の戦いで楠木正行を討ち取った婆沙羅大名の高師直率いる約60,000騎の軍勢が、吉野山に、押し寄せ、吉野行宮に火を放ったが、風に煽られ、蔵王堂はじめ多くの寺院宝塔が焼け、吉野山一帯は、焼け野原となった。後村上天皇は、賀名生(現在の五条市西吉野)に逃れた。
◆後醍醐天皇(1288年~1339年)
第96代天皇。鎌倉幕府の荒廃を見た天皇は、天皇親政復活のため、1324年、日野資朝・日野敏俊基らの側近と謀り、倒幕を計画するが、失敗する(正中の変)。1331年、再び計画が漏れて隠岐に島流しされたが、島前海賊衆の力で脱出し、1333年鎌倉幕府を倒して建武の政権を樹立した。しかし、軍功の恩賞は、武家より公家に配分が厚く、明らかに不公平と思われ納得できないと武士たちは、不平を鳴らし始めた。そして、足利尊氏が叛いたため、吉野に逃れて南朝をたてる。何度となく京都奪回をはかるが、1339年、後村上天皇に譲位後、都への思いを残しながら、大和国・吉野山でこの世を去る。
◆高 師直 (生年不詳~1351年)
南北朝時代の武将、元弘の乱以降、足利尊氏に従い、室町幕府創立に軍功があり、室町幕府でも足利尊氏の執事として権威を振舞いました。その後、尊氏の弟、足利直義と対立し、正平3年(1351年)足利尊氏とともに足利直義軍に敗れ、剃髪帰順して京に向かう途中、武庫川辺りで足利直義党の上杉能憲に弟高師泰とともに殺害されました。