記憶の中のあの美しいたたずまいは今も変わらずにそこにあった。
息子がまだ幼い頃によくやってきたこの辺りを今また走るのはなんとも感慨深いものがある。
一帯は緩やかな起伏が連なる山麓の懐に抱かれておりそのひなびた在りようにとても心が癒やされ落ちつく。
自分の生まれ育った風土に似た親近感を覚えるからだろうか。
沿道の家々の庭先は緑濃くよく手入れされているようだ。
また幾つかの家々は建て替えされたのだろうかとても真新しく見える。
以前はアスファルト路面が波を打っていたり所々継ぎ接ぎがあったりしたが,今ではまったく滑らかになってよく整備されているようだ。*(グッド)*
真夏の昼下がり,まるで時間が止まってしまったようなけだるい空気と眩しい陽光に満たされた山麓のとある小さな道路でのことを思い出す。
初老の婦人と幼い女の子と(その)母親(らしき)三人が沿道を散歩している傍をゆっくり車で通り過ぎたことがあった。
アスファルト道路の沿道は乾ききって三人の歩いた後にはかすかに砂ほこりが舞い上がっていた。
道路の反対側には木造で杉の皮葺きのうす黒く寂れた小さなバス停がぽつんと建っていた。
バス停の中は外の眩しさとは反対の陰影の濃い日陰になっていて涼しそうだった。
里の原風景ともいえる風情があった。
その小さなバス停は同じ場所にあった。
ただその造りは同じながら最近新しく建て替えられたようで小さな三角の屋根は陽光を眩しく反射するトタン板に変わっていた。*(キラキラ)*
山麓路の起伏をなぞりながら予定のルートをさらに先へ進んだ。
小さな川にかかった橋を渡って露天市場が開かれ賑わっているノベ・タルク郊外の混雑を通りぬけそして北に進路をとりクラカウへ向かった。
その辺りからはうねりの振幅が大きくなり曲がりくねったながい上り坂が続いている。
何時ものことでスピードの出ない小型トラックや観光バスの後に車のながい列ができる。
上りきったところには古ぼけた木造教会があってそのさきで一瞬で視界が開けるところにでる。
こんどは素晴らし眺望は続く曲がりくねった下り坂を下りきるとしばらくは平坦部が続く。
ちょうどその平らな直線道路の半ばほどの距離に大きな赤松の老木が3本道路わきに並んで生えている。
そこはいつの日だったか幼い息子がおしっこを我慢できず緊急停車した場所であった。
その松の木のあたりでスピードを落としながら(心の中で松の木にご無沙汰の挨拶をして)通り過ぎた。*(ウインク)*
つぎの峠を越えてから続く長い下り坂の途中で白いミニバスの単独事故に遭遇した。
対向車線を横切り道路上から20メートル下の畑に滑り落ちてあお向けにひっくり返っていた。
さについ今しがた起きたばかりの様子で近所の人たちらしき数人と乗員はすでに車外に出ていた。
遠くから流し見ただけだったので確かではないが大事にはいたらなかった様子だった。*(バツ)**(車)*
近所の人たちがすぐに連絡を取ったのだろか,まもなく進行方向からサイレンを鳴らして猛スピードで走っていく救急車や数台の消防車そしてパトカーらと連続してすれ違った。
クラカウへ向かって走っているのだがこのルートは交通量が多く特に週末(いまは金曜日の午後)はクラカウから保養地ザコパーナへ向かう車で途切れないほどである。
ところどころで交通渋滞さえ起きていた。
終点ザコパーナまでは山麓をなぞるように道路が敷かれていて自ずと狭い道幅である。
そんなルートであるが今回クラカウに近い山峡のあたりで道幅の広い新しいバイパス路線の工事が進行中だった。
おそらくEUの補助金がこういった将来性のある観光地へ伸びる幹線道路へも投入されているのだろうか。
80年代半ば以降のスペインが好い例で1986年にEUに加盟した直後から多額なEUの補助金の恩恵を受け続けてまたたく間に広いイベリア半島じゅうに高速道路網が張り巡らされた経緯がある。
そのスペインには毎年人口の2倍以上の観光客が訪れるという。
そういう事例に対して個人的な心情はやや複雑である。*(困る)*
自分の大切な思い出の中にある保養地ザコパーナはいつまでも往時のままの姿でいて欲しいのだ。*(ハート)*
80年代後半東欧革命が起きるまえにここを初めて訪れた時の感動は今でも鮮烈に覚えている。
早朝にオランダを発って1450kmの道のりを走破してその日の夕方もうすっかり暗くなってからやっとタトラ山系の麓に佇むザコパーナへたどり着いた。
その晩投宿したペンションで開け放った窓から流れ込む清涼でかぐわしい山麓の夜の冷気と杉の木の梢から今にも降ってきそうなほど鮮烈に瞬いていた星空のことが忘れられない。
*(山)**(三日月)*
そのとき,「あと10年たったらここはどう変貌しているのだろうか?
できればいつまでもひなびた無垢のままの姿でいて欲しい。」と思った。*(クローバー)*
身勝手な要求だが無節操な観光地開発をされていく姿は見たくないのだ。
目先の利益優先でその土地の持ち味を見失って“どこにでもあるような陳腐な観光地”に落魄してしまったところを幾つか見てきたこの目には特にそういう想いが強いのだ。
ヨーロッパの原風景が今も強く残る東(中)欧の特に気に入っているここについては。
次々と目の前にあらわれる景色がなつかしい思い出とダブってなかなか走行距離が伸びないようだ。今日はすっかり郷愁の世界に浸りきってしまったようです。
対向車線をはしっている車のナンバープレートを見ていると気づくのだがすでにポーランドナンバー車以外のナンバープレートをつけた車が大変多い。
地元ポーランドナンバーに混じってドイツ・デンマーク・ベルギー・フランスそしてオランダからやってきた車がとても多い。
かつては,西欧諸国からこのあたりへやってくる車はほんのわずかであった。
当時はすれ違う相手の車が自分と同じ国のナンバープレートをつけているのに出くわすとクラクションを2~3度鳴らして手を振り合って同郷のよしみを確認しあったものであった。
実際ウクナイナ旅行中に出会ったオランダナンバー車は合計3台(もう1台は駐車中だった)にはそうやってしっかり挨拶し合った。*(グッド)*
ところがここではあまりにも相手が多すぎ昔のつもりで挨拶をするとクラクションを鳴りっぱなしになってしまうことになって運転がおろそかになるのでとてもできない。
道路が片側複線に切り替わったあたりからクラカウの環状線である高速道路A4へ合流した。
10日前にやってきたときは真夏らしい雷雨に弄ばれひどい土砂降りの中でホテル探しをしたけど,今日は快晴の夏日で気温は30度近い上天気に恵まれている。
*(晴れ)*
クラカウ西側近郊にある高速道路サービスステーションに立ち寄った。
子供連れの夏休み客でごった返すカフェレストランで昼食をとった。
わたしは大好物の燻製ソーセージ炒めとキャベツの細切り酢和えサラダ,息子はやはり好物のコペチカとボルシチスープをそれぞれいただいた。
勿論おいしいポーランド・パンもつけて。二人ぶんの飲み物も入れて合計7,90ユーロと安かった。*(ニヤ)*
ポーランドにはおいしい食べ物がたくさんあるが,そのうちここのパンとソーセージ(実に多くの種類がある)は逸品だ。
すでに評判の高いお隣のドイツでいただく同種の食べ物よりもさらにおいしい。
太鼓判をおせる。*(グッド)*
お腹も一杯になったし約450km先のドイツ国境へ向かって出発した。
来た時とは別のもう少し北にあるA12オルジナ(ドイツ側バッドメンセル)の国境を通過する予定だ。
ベルリンへ向かうルートだ。
真新しい高速道路A4を西北に進路を取りシロンスク(シュレージェン)地方に入る。
どいう訳か料金所が無くただである。
この高速道路もまたEUの補助金で整備敷設されているのだろうか。
EUに加盟したのが2004年5月だからわずか2年足らずだがここのように主要幹線道路の整備拡張工事や新設が驚くほどのテンポで展開されているのがここでも実感される。
90年代半ば頃まではまったくメインテナンスがなされてないひどい路面状態でかつてのオリジナルのアウトバーン(ヒットラーが大戦前に敷設したものだから荒れるのまかされていた)をガタゴト300km近くも走らねばならなかった。
ウクライナの悪路とは違いここはコンクリート路面なので継ぎ目だけが極度にほころんでいるのだ。
いまはよくなっているだろうと勝手に期待してこのルートを選んだ。
シロンスク地方は中欧地域通史上帰属国(ポーランド,プロシア,ハプスブルグ,ボヘミア等)が片々と変わって来た地域で現在はポーランド領になっているが1945年以前はドイツ領(ワイマール共和国、第三帝国)だった。
それを決めたのはあのヤルタ会談でスターリンとルーズベルトの裏取引の結果だそうだ。
ソ連が東ガリチア(現ウクライナ領)を欲しくてそれをいただく代わりにここシロンスクをドイツからもぎ取りポーランドへくっつけたのだそうだ。
そのために700万人ものドイツ人がその土地を去って大戦後のドイツ領へ移らねばならなかった。*(足)**(最低)*
あまたの例があるけれどこれも戦勝国の敗戦国に対する身勝手な沙汰のひとつだと思う。
西欧世界の植民地的帝国主義(強大国至上主義)の論理があからさまにあらわれている一例だ。
彼らはそういう無理むたいを地球規模で延々とやってきている。
当然の因果応報であるそれら地域では民族間の文化や宗教が源泉にある軋轢がますます激しくなって紛争が繰り返されている。あるいはそういう火種が絶えないところも数えきれないほどある。
げんに欧州大陸とその隣接地域だけでも衝突や紛争がない日はないほどだ。
昨今大盛況のテロについても背景は同様だ。
そういう意味でも今までとは別の視点からの歴史認識や解釈の再構築が迫られているのが今の時代だと思う。
勝ち組側からだけの歴史観や屁理屈だけではとうてい対応できない事を認めるひつようがある。
平和な共存を現実のものにする為にはたとえどれだけ長い時間がかかろうと既存の諸価値観さえ変える必要があろうとも避けては通れない大きく重い重要課題だ。
そうできなければ世界の未来は闇の中に埋没することだろう。*(進入禁止)*
クラカウを後にしてからカトヴィツエ,オポール,ブレスラウ,レーグニッツアと西北へ進んでいくのだがオポール手前で突然交通渋滞に出くわしてしまった。
反対車線は動いているのだからこの先で事故があったのだろうか?
ゆっくり動き出したと思ったら警察官の誘導で高速道路を降ろされてしまった。
どういう訳かそこから数km先でUターンできた。
また高速道路に合流することができほんの10kmほど走ったら再び警察官の指示に従って降りなければならなかった。
どうやらその先は完全に両方向車線とも閉鎖されているらしく我々は高速道路と並行して走る一般道へ迂回させられた。
こう書くとスッと一般道へ合流したように見えるが実際はカメの歩みかカタツムリのスピードでひどい渋滞が2時間半近くも続いたので次の街オポールに入ったのは夕方6時半だった。
ホテルのサインをたどって飛び込んだのはFESTIVALの大きな看板を掲げたやや古ぼけた外観のホテルだった。
幸運にも外観から受けた印象とは異なりこのホテルの内装は小奇麗で気持ちよかった。
ドイツから大型バスでやってきたと思われるお年寄りの団体客が同宿していた。
このあたりはよく手入れをされた耕作地がゆるやかな起伏をなぞって拡がる地域である。
近くには欧州最大のシロンスク炭田もあり製鉄業もさかんな地域でもある。
オポールの景観は大きな近代的なビルこそ少ないがドイツのどこかにある街並み的である。
彼らがまだ若者だった頃ここはドイツ領だったはずだ。
昔このあたりに住んでいた人たちだろうか?
夕食の時いっしょだった彼らを眺めながらそんなことを想った。
今ある形での国々とのその間に引かれた国境線というのはできて間もないものの方が多いくらいで古いものでも200年を越えるものは極わずかである。
時間軸を広げて欧州地域を眺めてみるとそういうことがよく見えてくる。*(砂時計)*
これから向かうベルリンだって1989年にベルリンの壁が崩れるまではDDR(ドイツ民主共和国=東ドイツ)領にあったのだった。
つい17年前までのことだがそれまでポーランドへ車で行くにはオランダから西ドイツへさらに東ドイツへ入りそしてポーランドへ入らねばならかかった。
そのたびにそれぞれの国境検問所で費やす時間が大きく必ずスタンプやヴィザが必要だった。
そういう既成のものではない自分の歴史観を持って欧州を見るととても興味深い。
逆にそういう歴史観を持つには生きた地理が良くわからないと点と点がつながらないし良くわからない。
そういう意味で今回のウクライナ方面への旅は自分の欧州地域の理解をさらに大きく広げてくれた。*(地球)*
明日はいよいよオランダへ帰る。
次回が本当の最終記です。*(びっくり2)*
息子がまだ幼い頃によくやってきたこの辺りを今また走るのはなんとも感慨深いものがある。
一帯は緩やかな起伏が連なる山麓の懐に抱かれておりそのひなびた在りようにとても心が癒やされ落ちつく。
自分の生まれ育った風土に似た親近感を覚えるからだろうか。
沿道の家々の庭先は緑濃くよく手入れされているようだ。
また幾つかの家々は建て替えされたのだろうかとても真新しく見える。
以前はアスファルト路面が波を打っていたり所々継ぎ接ぎがあったりしたが,今ではまったく滑らかになってよく整備されているようだ。*(グッド)*
真夏の昼下がり,まるで時間が止まってしまったようなけだるい空気と眩しい陽光に満たされた山麓のとある小さな道路でのことを思い出す。
初老の婦人と幼い女の子と(その)母親(らしき)三人が沿道を散歩している傍をゆっくり車で通り過ぎたことがあった。
アスファルト道路の沿道は乾ききって三人の歩いた後にはかすかに砂ほこりが舞い上がっていた。
道路の反対側には木造で杉の皮葺きのうす黒く寂れた小さなバス停がぽつんと建っていた。
バス停の中は外の眩しさとは反対の陰影の濃い日陰になっていて涼しそうだった。
里の原風景ともいえる風情があった。
その小さなバス停は同じ場所にあった。
ただその造りは同じながら最近新しく建て替えられたようで小さな三角の屋根は陽光を眩しく反射するトタン板に変わっていた。*(キラキラ)*
山麓路の起伏をなぞりながら予定のルートをさらに先へ進んだ。
小さな川にかかった橋を渡って露天市場が開かれ賑わっているノベ・タルク郊外の混雑を通りぬけそして北に進路をとりクラカウへ向かった。
その辺りからはうねりの振幅が大きくなり曲がりくねったながい上り坂が続いている。
何時ものことでスピードの出ない小型トラックや観光バスの後に車のながい列ができる。
上りきったところには古ぼけた木造教会があってそのさきで一瞬で視界が開けるところにでる。
こんどは素晴らし眺望は続く曲がりくねった下り坂を下りきるとしばらくは平坦部が続く。
ちょうどその平らな直線道路の半ばほどの距離に大きな赤松の老木が3本道路わきに並んで生えている。
そこはいつの日だったか幼い息子がおしっこを我慢できず緊急停車した場所であった。
その松の木のあたりでスピードを落としながら(心の中で松の木にご無沙汰の挨拶をして)通り過ぎた。*(ウインク)*
つぎの峠を越えてから続く長い下り坂の途中で白いミニバスの単独事故に遭遇した。
対向車線を横切り道路上から20メートル下の畑に滑り落ちてあお向けにひっくり返っていた。
さについ今しがた起きたばかりの様子で近所の人たちらしき数人と乗員はすでに車外に出ていた。
遠くから流し見ただけだったので確かではないが大事にはいたらなかった様子だった。*(バツ)**(車)*
近所の人たちがすぐに連絡を取ったのだろか,まもなく進行方向からサイレンを鳴らして猛スピードで走っていく救急車や数台の消防車そしてパトカーらと連続してすれ違った。
クラカウへ向かって走っているのだがこのルートは交通量が多く特に週末(いまは金曜日の午後)はクラカウから保養地ザコパーナへ向かう車で途切れないほどである。
ところどころで交通渋滞さえ起きていた。
終点ザコパーナまでは山麓をなぞるように道路が敷かれていて自ずと狭い道幅である。
そんなルートであるが今回クラカウに近い山峡のあたりで道幅の広い新しいバイパス路線の工事が進行中だった。
おそらくEUの補助金がこういった将来性のある観光地へ伸びる幹線道路へも投入されているのだろうか。
80年代半ば以降のスペインが好い例で1986年にEUに加盟した直後から多額なEUの補助金の恩恵を受け続けてまたたく間に広いイベリア半島じゅうに高速道路網が張り巡らされた経緯がある。
そのスペインには毎年人口の2倍以上の観光客が訪れるという。
そういう事例に対して個人的な心情はやや複雑である。*(困る)*
自分の大切な思い出の中にある保養地ザコパーナはいつまでも往時のままの姿でいて欲しいのだ。*(ハート)*
80年代後半東欧革命が起きるまえにここを初めて訪れた時の感動は今でも鮮烈に覚えている。
早朝にオランダを発って1450kmの道のりを走破してその日の夕方もうすっかり暗くなってからやっとタトラ山系の麓に佇むザコパーナへたどり着いた。
その晩投宿したペンションで開け放った窓から流れ込む清涼でかぐわしい山麓の夜の冷気と杉の木の梢から今にも降ってきそうなほど鮮烈に瞬いていた星空のことが忘れられない。
*(山)**(三日月)*
そのとき,「あと10年たったらここはどう変貌しているのだろうか?
できればいつまでもひなびた無垢のままの姿でいて欲しい。」と思った。*(クローバー)*
身勝手な要求だが無節操な観光地開発をされていく姿は見たくないのだ。
目先の利益優先でその土地の持ち味を見失って“どこにでもあるような陳腐な観光地”に落魄してしまったところを幾つか見てきたこの目には特にそういう想いが強いのだ。
ヨーロッパの原風景が今も強く残る東(中)欧の特に気に入っているここについては。
次々と目の前にあらわれる景色がなつかしい思い出とダブってなかなか走行距離が伸びないようだ。今日はすっかり郷愁の世界に浸りきってしまったようです。
対向車線をはしっている車のナンバープレートを見ていると気づくのだがすでにポーランドナンバー車以外のナンバープレートをつけた車が大変多い。
地元ポーランドナンバーに混じってドイツ・デンマーク・ベルギー・フランスそしてオランダからやってきた車がとても多い。
かつては,西欧諸国からこのあたりへやってくる車はほんのわずかであった。
当時はすれ違う相手の車が自分と同じ国のナンバープレートをつけているのに出くわすとクラクションを2~3度鳴らして手を振り合って同郷のよしみを確認しあったものであった。
実際ウクナイナ旅行中に出会ったオランダナンバー車は合計3台(もう1台は駐車中だった)にはそうやってしっかり挨拶し合った。*(グッド)*
ところがここではあまりにも相手が多すぎ昔のつもりで挨拶をするとクラクションを鳴りっぱなしになってしまうことになって運転がおろそかになるのでとてもできない。
道路が片側複線に切り替わったあたりからクラカウの環状線である高速道路A4へ合流した。
10日前にやってきたときは真夏らしい雷雨に弄ばれひどい土砂降りの中でホテル探しをしたけど,今日は快晴の夏日で気温は30度近い上天気に恵まれている。
*(晴れ)*
クラカウ西側近郊にある高速道路サービスステーションに立ち寄った。
子供連れの夏休み客でごった返すカフェレストランで昼食をとった。
わたしは大好物の燻製ソーセージ炒めとキャベツの細切り酢和えサラダ,息子はやはり好物のコペチカとボルシチスープをそれぞれいただいた。
勿論おいしいポーランド・パンもつけて。二人ぶんの飲み物も入れて合計7,90ユーロと安かった。*(ニヤ)*
ポーランドにはおいしい食べ物がたくさんあるが,そのうちここのパンとソーセージ(実に多くの種類がある)は逸品だ。
すでに評判の高いお隣のドイツでいただく同種の食べ物よりもさらにおいしい。
太鼓判をおせる。*(グッド)*
お腹も一杯になったし約450km先のドイツ国境へ向かって出発した。
来た時とは別のもう少し北にあるA12オルジナ(ドイツ側バッドメンセル)の国境を通過する予定だ。
ベルリンへ向かうルートだ。
真新しい高速道路A4を西北に進路を取りシロンスク(シュレージェン)地方に入る。
どいう訳か料金所が無くただである。
この高速道路もまたEUの補助金で整備敷設されているのだろうか。
EUに加盟したのが2004年5月だからわずか2年足らずだがここのように主要幹線道路の整備拡張工事や新設が驚くほどのテンポで展開されているのがここでも実感される。
90年代半ば頃まではまったくメインテナンスがなされてないひどい路面状態でかつてのオリジナルのアウトバーン(ヒットラーが大戦前に敷設したものだから荒れるのまかされていた)をガタゴト300km近くも走らねばならなかった。
ウクライナの悪路とは違いここはコンクリート路面なので継ぎ目だけが極度にほころんでいるのだ。
いまはよくなっているだろうと勝手に期待してこのルートを選んだ。
シロンスク地方は中欧地域通史上帰属国(ポーランド,プロシア,ハプスブルグ,ボヘミア等)が片々と変わって来た地域で現在はポーランド領になっているが1945年以前はドイツ領(ワイマール共和国、第三帝国)だった。
それを決めたのはあのヤルタ会談でスターリンとルーズベルトの裏取引の結果だそうだ。
ソ連が東ガリチア(現ウクライナ領)を欲しくてそれをいただく代わりにここシロンスクをドイツからもぎ取りポーランドへくっつけたのだそうだ。
そのために700万人ものドイツ人がその土地を去って大戦後のドイツ領へ移らねばならなかった。*(足)**(最低)*
あまたの例があるけれどこれも戦勝国の敗戦国に対する身勝手な沙汰のひとつだと思う。
西欧世界の植民地的帝国主義(強大国至上主義)の論理があからさまにあらわれている一例だ。
彼らはそういう無理むたいを地球規模で延々とやってきている。
当然の因果応報であるそれら地域では民族間の文化や宗教が源泉にある軋轢がますます激しくなって紛争が繰り返されている。あるいはそういう火種が絶えないところも数えきれないほどある。
げんに欧州大陸とその隣接地域だけでも衝突や紛争がない日はないほどだ。
昨今大盛況のテロについても背景は同様だ。
そういう意味でも今までとは別の視点からの歴史認識や解釈の再構築が迫られているのが今の時代だと思う。
勝ち組側からだけの歴史観や屁理屈だけではとうてい対応できない事を認めるひつようがある。
平和な共存を現実のものにする為にはたとえどれだけ長い時間がかかろうと既存の諸価値観さえ変える必要があろうとも避けては通れない大きく重い重要課題だ。
そうできなければ世界の未来は闇の中に埋没することだろう。*(進入禁止)*
クラカウを後にしてからカトヴィツエ,オポール,ブレスラウ,レーグニッツアと西北へ進んでいくのだがオポール手前で突然交通渋滞に出くわしてしまった。
反対車線は動いているのだからこの先で事故があったのだろうか?
ゆっくり動き出したと思ったら警察官の誘導で高速道路を降ろされてしまった。
どういう訳かそこから数km先でUターンできた。
また高速道路に合流することができほんの10kmほど走ったら再び警察官の指示に従って降りなければならなかった。
どうやらその先は完全に両方向車線とも閉鎖されているらしく我々は高速道路と並行して走る一般道へ迂回させられた。
こう書くとスッと一般道へ合流したように見えるが実際はカメの歩みかカタツムリのスピードでひどい渋滞が2時間半近くも続いたので次の街オポールに入ったのは夕方6時半だった。
ホテルのサインをたどって飛び込んだのはFESTIVALの大きな看板を掲げたやや古ぼけた外観のホテルだった。
幸運にも外観から受けた印象とは異なりこのホテルの内装は小奇麗で気持ちよかった。
ドイツから大型バスでやってきたと思われるお年寄りの団体客が同宿していた。
このあたりはよく手入れをされた耕作地がゆるやかな起伏をなぞって拡がる地域である。
近くには欧州最大のシロンスク炭田もあり製鉄業もさかんな地域でもある。
オポールの景観は大きな近代的なビルこそ少ないがドイツのどこかにある街並み的である。
彼らがまだ若者だった頃ここはドイツ領だったはずだ。
昔このあたりに住んでいた人たちだろうか?
夕食の時いっしょだった彼らを眺めながらそんなことを想った。
今ある形での国々とのその間に引かれた国境線というのはできて間もないものの方が多いくらいで古いものでも200年を越えるものは極わずかである。
時間軸を広げて欧州地域を眺めてみるとそういうことがよく見えてくる。*(砂時計)*
これから向かうベルリンだって1989年にベルリンの壁が崩れるまではDDR(ドイツ民主共和国=東ドイツ)領にあったのだった。
つい17年前までのことだがそれまでポーランドへ車で行くにはオランダから西ドイツへさらに東ドイツへ入りそしてポーランドへ入らねばならかかった。
そのたびにそれぞれの国境検問所で費やす時間が大きく必ずスタンプやヴィザが必要だった。
そういう既成のものではない自分の歴史観を持って欧州を見るととても興味深い。
逆にそういう歴史観を持つには生きた地理が良くわからないと点と点がつながらないし良くわからない。
そういう意味で今回のウクライナ方面への旅は自分の欧州地域の理解をさらに大きく広げてくれた。*(地球)*
明日はいよいよオランダへ帰る。
次回が本当の最終記です。*(びっくり2)*