今でもときどき思い出すことであるが、ひょんなことからある亡命者と約半年間接点があった。
そしてそのてん末について書いてみたくなった。
今でもそれほど大きく変わっていないが私が住んでいるアムステルダム近郊の村は’90半ば頃日本人は私も含めてわずか3人しか住んでいなかった。
そして日本のことをよく知っていると近所で評判の亡命イラン人といきつけのホームドクターを通して知り合いになった。
当時我が家は4人家族にポーランドの義理の母がやってきていたので臨時5人家族であった。
ある週末の午後彼が我が家に尋ねてきた。彼は我が家があるストリート一つ棟並び違いの家に寄宿しているということだった。すぐ近所である。
初対面のその人は豊かな体躯に褐色の肌をした若々しくなかなか男前で整った風貌の持ち主であった。
歳はちょうど30才であると言っていた。
たしかに片言の日本語を話すし一時住んでいたという東京や大阪界隈のことをよく知っているようだった。
その時はほかの家族のみんなもわかるように日本語はそこそこにして大半は英語で話をした。
彼自身の語りに依れば彼の父親はパフラヴィー王朝のもと政府高官だったが’79に起こったイラン革命により家族みんなは亡命の身の上になった。
そしてそれまでに日本を含む幾つかの国々に住んだことがあり今は自分と兄弟の誰それはここオランダに居ることになったという話だった。
それからさらに2度我が家へ訪ねてきたが、その後しばらくして事情があってアムステルダムの方へ引っ越したとの電話があった。
幾度か彼の住む街中にある3階の小さな貸部屋を息子といっしょに訪ねた。
ぜひ食べてくれとどこかで買ってきたらしい揚げカレーパンを勧められた。
私にとっては懐かしい、息子にとってはとっても食べたくなる様な見栄えのおやつで勧められるままにいただいた。
たしかに日本のお店で買えるようなそのままの味と格好の代物であった。
その時彼の住まいをはじめて見たのだが、一人身とはいえけして経済的に豊かな生活をしていないことは一見しただけで明らかであった。
それからそのあと2度ほど彼と会った。
一度は仕事探しの面接付き添いでアムステル空港隣接地区にあった日本のさる運輸会社の事務所へ、最後はこの国の移民局へ滞在延長許可をもらうために必要な緊急手続き申請費用の一部としてDFL.450-を立て替えてやる為に。
その後は彼の声を聞いたのは再度引っ越した先の電話から3回ほど。
どこかアムステルダムの一角にいるらしい。
それからは電話さえ通じなくなってどこにいて何をしているのかまったく判らなくなった。
この一連のいきさつで少なくとも2つのことが明らかになった。
一つは彼を信じ助けてやるべく立て替えてやったお金は借用書さえも書いてもらったが結局戻ってこなかった。
もう一つは、彼はゲイだったらしい。
後から伝え聞いた一時寄宿させてもらっていた家の人たちの話と我が家の女衆もそういう匂いを嗅ぎ取っていたらしい。
そういうことがあったが、だからといって彼に対して嫌悪感とか憎悪あるいは確かな怒りなどは不思議なことにその時もそして今も持った事は無かった。
どうしてかと言うと、やはり彼は生まれ育って十代の後半まで良い生活を送った筈の母国を革命という政変の為に追われ
やむなく国外で厳しい生活を余儀なくされた一人である。その恵まれない境遇に対して同情の念があった。
それとはじめて出会ってから約半年後の最後の電話の会話まで人に対してやさしさと日本人が尊ぶ礼儀正しさがあった。
わが息子(当時5歳ぐらい)に対してもとても親愛の情にあふれていた。
結果からみると私からお金を騙し取ったことになるが、安易に他人を信用してお金を渡した私のほうが迂闊であった。
恐喝されて仕方なくしたわけでもない。
亡命者の身の上であらゆるチャンスを逃さず自分だけの才覚と努力で生き延びていかねばならない境遇を考えるともっと手荒な手段でカモから奪取する事だってありえたのだろう。
でも彼はそうではなかった。
などの理由からである。
色々見方や意見はあるだろうが、やはり亡命者とか難民という身の上は本人たちが好き好んでなったわけではない。
否応なしあるいは止むに止まれず少なくとも命を生きながらさせる為にそういう選択肢を取ったというのが大半だろう。
私もこの国に来た移民の一人であるが、彼らとは発端のところの切実さ深刻さがまったく違っている。
実はイラン人との付き合いはこのときがはじめてではない。
私がまだ日本にいた’70年代の前半頃イランの産業近代化促進の尖兵として隣町にあったソ○ー研究所へ研修の為に来日していたイラン人の(たぶん)エリートさんらと知り合いになった。
その時の彼らとの付き合いが私の拙い英語力を幾分か高めてくれた。
彼らは’76年に生まれてはじめて欧州へ出国する私をわざわざ羽田空港まで見送りに来てくれた。
当時まだ成田空港はなかったのだ。
あのときの彼らも誠実で礼儀正しくとてもよい人柄の人たちだった。
その時学んだのが、モスラム(イスラム教徒)は豚肉はダメお酒は飲まずまたコーヒーも。
彼らが飲むのはいつも熱い紅茶だけだった。
日本では身近な事ではありませんがRefugeeやExileそれからDiaspora (亡命・難民・追放民)はこちらではままあることだしたかだか過去100年前後の歴史の中でも多数発生しています。
あのイラン人のことを想い出しながらふとまた起きるであろう紛争や戦争あるいは政変そして大規模自然災害等の要因により追い込まれて発生する亡命者や難民のことをどうしても考えてしまう。
大げさではなく場合によっては自分もそうなるかも知れない今はそんな世相のようだ。
嘘八百のマスメディアからではなく無数に行きかうインターネット経由情報の取捨選択と動向の考察によりそんなことが見えてくる。
余談ですが、私が週2回通っているオランダ語教室(夜学)にはいろんな国籍の受講生が来ていますがパレスチナ難民の夫婦も一組同席しています。
もちろん彼らもモスラムです。
そしてとっても誠実でよい人柄の人たちです。
彼らにとってベストなのは生まれ故郷の母国パレスチナへ戻って平和に暮らせることですが、とても今はそんな状況ではなく今後の成り行きが懸念されています。
*(怒り)**(汗)*
そしてそのてん末について書いてみたくなった。
今でもそれほど大きく変わっていないが私が住んでいるアムステルダム近郊の村は’90半ば頃日本人は私も含めてわずか3人しか住んでいなかった。
そして日本のことをよく知っていると近所で評判の亡命イラン人といきつけのホームドクターを通して知り合いになった。
当時我が家は4人家族にポーランドの義理の母がやってきていたので臨時5人家族であった。
ある週末の午後彼が我が家に尋ねてきた。彼は我が家があるストリート一つ棟並び違いの家に寄宿しているということだった。すぐ近所である。
初対面のその人は豊かな体躯に褐色の肌をした若々しくなかなか男前で整った風貌の持ち主であった。
歳はちょうど30才であると言っていた。
たしかに片言の日本語を話すし一時住んでいたという東京や大阪界隈のことをよく知っているようだった。
その時はほかの家族のみんなもわかるように日本語はそこそこにして大半は英語で話をした。
彼自身の語りに依れば彼の父親はパフラヴィー王朝のもと政府高官だったが’79に起こったイラン革命により家族みんなは亡命の身の上になった。
そしてそれまでに日本を含む幾つかの国々に住んだことがあり今は自分と兄弟の誰それはここオランダに居ることになったという話だった。
それからさらに2度我が家へ訪ねてきたが、その後しばらくして事情があってアムステルダムの方へ引っ越したとの電話があった。
幾度か彼の住む街中にある3階の小さな貸部屋を息子といっしょに訪ねた。
ぜひ食べてくれとどこかで買ってきたらしい揚げカレーパンを勧められた。
私にとっては懐かしい、息子にとってはとっても食べたくなる様な見栄えのおやつで勧められるままにいただいた。
たしかに日本のお店で買えるようなそのままの味と格好の代物であった。
その時彼の住まいをはじめて見たのだが、一人身とはいえけして経済的に豊かな生活をしていないことは一見しただけで明らかであった。
それからそのあと2度ほど彼と会った。
一度は仕事探しの面接付き添いでアムステル空港隣接地区にあった日本のさる運輸会社の事務所へ、最後はこの国の移民局へ滞在延長許可をもらうために必要な緊急手続き申請費用の一部としてDFL.450-を立て替えてやる為に。
その後は彼の声を聞いたのは再度引っ越した先の電話から3回ほど。
どこかアムステルダムの一角にいるらしい。
それからは電話さえ通じなくなってどこにいて何をしているのかまったく判らなくなった。
この一連のいきさつで少なくとも2つのことが明らかになった。
一つは彼を信じ助けてやるべく立て替えてやったお金は借用書さえも書いてもらったが結局戻ってこなかった。
もう一つは、彼はゲイだったらしい。
後から伝え聞いた一時寄宿させてもらっていた家の人たちの話と我が家の女衆もそういう匂いを嗅ぎ取っていたらしい。
そういうことがあったが、だからといって彼に対して嫌悪感とか憎悪あるいは確かな怒りなどは不思議なことにその時もそして今も持った事は無かった。
どうしてかと言うと、やはり彼は生まれ育って十代の後半まで良い生活を送った筈の母国を革命という政変の為に追われ
やむなく国外で厳しい生活を余儀なくされた一人である。その恵まれない境遇に対して同情の念があった。
それとはじめて出会ってから約半年後の最後の電話の会話まで人に対してやさしさと日本人が尊ぶ礼儀正しさがあった。
わが息子(当時5歳ぐらい)に対してもとても親愛の情にあふれていた。
結果からみると私からお金を騙し取ったことになるが、安易に他人を信用してお金を渡した私のほうが迂闊であった。
恐喝されて仕方なくしたわけでもない。
亡命者の身の上であらゆるチャンスを逃さず自分だけの才覚と努力で生き延びていかねばならない境遇を考えるともっと手荒な手段でカモから奪取する事だってありえたのだろう。
でも彼はそうではなかった。
などの理由からである。
色々見方や意見はあるだろうが、やはり亡命者とか難民という身の上は本人たちが好き好んでなったわけではない。
否応なしあるいは止むに止まれず少なくとも命を生きながらさせる為にそういう選択肢を取ったというのが大半だろう。
私もこの国に来た移民の一人であるが、彼らとは発端のところの切実さ深刻さがまったく違っている。
実はイラン人との付き合いはこのときがはじめてではない。
私がまだ日本にいた’70年代の前半頃イランの産業近代化促進の尖兵として隣町にあったソ○ー研究所へ研修の為に来日していたイラン人の(たぶん)エリートさんらと知り合いになった。
その時の彼らとの付き合いが私の拙い英語力を幾分か高めてくれた。
彼らは’76年に生まれてはじめて欧州へ出国する私をわざわざ羽田空港まで見送りに来てくれた。
当時まだ成田空港はなかったのだ。
あのときの彼らも誠実で礼儀正しくとてもよい人柄の人たちだった。
その時学んだのが、モスラム(イスラム教徒)は豚肉はダメお酒は飲まずまたコーヒーも。
彼らが飲むのはいつも熱い紅茶だけだった。
日本では身近な事ではありませんがRefugeeやExileそれからDiaspora (亡命・難民・追放民)はこちらではままあることだしたかだか過去100年前後の歴史の中でも多数発生しています。
あのイラン人のことを想い出しながらふとまた起きるであろう紛争や戦争あるいは政変そして大規模自然災害等の要因により追い込まれて発生する亡命者や難民のことをどうしても考えてしまう。
大げさではなく場合によっては自分もそうなるかも知れない今はそんな世相のようだ。
嘘八百のマスメディアからではなく無数に行きかうインターネット経由情報の取捨選択と動向の考察によりそんなことが見えてくる。
余談ですが、私が週2回通っているオランダ語教室(夜学)にはいろんな国籍の受講生が来ていますがパレスチナ難民の夫婦も一組同席しています。
もちろん彼らもモスラムです。
そしてとっても誠実でよい人柄の人たちです。
彼らにとってベストなのは生まれ故郷の母国パレスチナへ戻って平和に暮らせることですが、とても今はそんな状況ではなく今後の成り行きが懸念されています。
*(怒り)**(汗)*