
最近、諏訪の投稿が続いてたが、今回は千葉県佐倉市にある国立歴史民族学博物館の特別展
【伽耶】の話
伽耶は、朝鮮半島南端に6世紀前半まであった製鉄で栄えた国々。金環伽耶、大伽耶、高霊伽耶など伽耶と呼ばれる小国があった。
かつて「任那」と呼ばれた地域で、任那は和国、百済、新羅と領有する宗主国が変わり続けたが、最終的に新羅に滅ぼされて新羅の領土になった。
復刻品もあるが、彫金が素晴らしい。✨✨
韓国国立中央博物館と共同の国際企画で韓国の出土品や宝物が展示されている。
、、そのせいか?『任那』とか任那日本府というワードは一切ない😳?
展示品よりまずそこに驚いてしまいましたが、その辺はさておき
考古学とは関係なく古代ミステリーロマン的に綴っていきます。
【製鉄の民の海峡文化とは】
2世紀〜6世紀の韓国の出土品。
まだ百済、新羅、日本という国はなく小国ばかりだった頃、
日本列島と朝鮮半島の間に明確な国境も無かった時代は、朝鮮半島南端から九州北部で栄えた海峡文化圏があった。
朝鮮半島側の国々は、
伽耶、クヤ、コジェ、クジェ、クジャ、
などが並び、
日本列島側には
九州、クジュ、クナ、クマ、
などあり、訓みだけなら馬蹄を表す様な連帯感が強く感じられる😅
ク縛り、、なのか🤔
(※かつて九つの州があったので九州という説があるが、古事記・日本書紀にはその様な記述はなくイザナキ・イザナミがお産みになられたのは筑紫の国 / 豊の国 / 肥の国 / 熊曾の国又は日向の国の4つの国々(州)であり、9の国々の起源は見当たらない😵💫大分県の『九重』が語源、、という方がまだ根拠感がある。しかし、我々日本人には何故か『九州』という言葉の響きが不思議としっくりくる。)
この辺りの国境が無かった時代の国々だけでなく
任那という言葉からして今はタブーらしく、、
博物館ではただ『倭との交流』という表記の展示になっていた。😮
金海伽耶は、金スロを始祖とする国で対馬からも近く和国との関わりは深い。
6世紀前半、新羅の真興王に伽耶諸国は滅ぼされ吸収された。
【日本列島側に拠点を移した製鉄の民】
熔鉱炉の製法などは鍛冶長相伝の知的財産で、基本図以外は口伝だったので、鍛冶長は決して失うことは出来ない存在であり、大切に守られていた。
精煉や研磨まで高度な技術を担っている特殊な技術者集団の国で、
その為に、何度も宗主国が代わりながらも完全に領有されることなく製鉄の民は独自性を何世紀も保つ事ができてきたと思われる。
しかし、かつての小国部族連合が無くなっていき百済、新羅など国家の形を整えた強国が生まれてくると、製鉄の民らは日本列島側にその中心を移したと思われ、5世紀頃〜は日本製の鎧や武器が朝鮮半島側で埋葬品に使用される様になった。
製鉄の民は、鉄鉱石やベンガラだけでなくその60倍もの薪を必要とするため、山の再生力を残して原料の取れる山へ移動する山の民でもあった。
朝鮮半島から九州側に渡った後は、山深く原料豊富な出雲や奈良へと東へ東へと拠点を移していった。
『サビてしまっているが鳳凰の紋がある環頭大刀』
伽耶が滅んだ頃の和国は欽明天皇の時代で、
大伴金村が、朝鮮半島南部の任那の四郡を百済に割譲してしまったりなどして失脚した後で、代わって蘇我氏の台頭が始まっていた。
秦氏は既に隠然たる力を持っていて、欽明天皇は「秦氏を味方につければ天下は治まる」との夢をみて秦氏を重用したが、蘇我氏が立てた次の敏達天皇より蘇我氏の専横が強くなった。
欽明天皇は、新羅の任那争奪戦の最中に薨去した。
大伴金村が和国側から朝鮮半島の百済へ任那を割譲したという記録があるので、国境は明確に誕生している時代に入っているが、領有に関しては朝鮮半島から日本列島に跨がる宗主権は存在していたと思われる。
日本では、韓国製の出土はなく
韓国では日本製の出土品があるという
偏りがある🤔ならば
日本側から進出した感はある。
しかし、朝鮮半島の南端で発見された前方後方墳でさえ「日本の墓制の影響を受けて造られた」とされているので、日本側から権力者が統治していたという考え方は忌避されている様だ。
(日本では古墳を造るほどの存在は=その地の王と考えるむきがありますが😅)
考古物の展示であっても、開催にあたっての両国の配慮が感じられた。
国内の他機関の間で一品出品するだけでも、相当な年月や手続きを要するが
こうした時代の展示が両国合同で開催されたのは、凄いことだと思う。
(2022年10/4~12/11まで開催)
儀器 勾玉剣?🤔
【製鉄の国出雲と東日本へのネットワークの歴史】
朝鮮半島と日本列島の交流を考える時、海神族の都『龍宮』があった対馬の存在は重要だ。
朝鮮と九州だけでなく、対馬海流の沿岸一帯、対馬、出雲、能登、越の国までのネットワークが存在したようで、越の国から内陸部へ入った信州は海神族の第二の拠点だった。
奇しくも、前々回までの諏訪の投稿では建御名方命と八坂刀売、渟名川姫ら海神族の姫が諏訪入りしてきたこのルートの投稿をしてきたので、
海神族の都があった対馬と近く関わりが深い『伽耶』の考古物を直接見ることが出来て良かった。当時の世界観が感じられる😌✨🗡️
韓国で出土した和国製の広形銅鉾
広鉾と言えば出雲のレガリアだ。
博物館のある千葉県佐倉市には、『日月神示』という書紀チャネリングが降ろされ事で知られる麻賀多神社がある。
(まだスマホが無いガラケー時代の画像🙄)
元々はマガタマ神社だったが、その名を憚られマガタに変更されたという。
勾玉は縄文時代から翡翠の産地の越の国(新潟県糸魚川市)で作られていた物で、その後は越の国の海神族が作っていたが、海神族の移動と共に勾玉の生産は無くなった。宝玉の一族を率い玊姫と呼ばれていた、渟名川姫は信州へ移動した。
その後、諏訪の釜無川の下流の富士川(または諏訪の天竜川の下流)へ降り太平洋岸の静岡へ出たと思われる。
そして、千葉は海神族の最後の拠点になった様で一宮の玉前神社や南宮神社をはじめとして海神族の由縁が各地に残る。
『龍宮』の潮光玉、越国の大珠、そして勾玉と宝玉を抱く海神族が
対馬、上越、長野、千葉まで、弥生時代の信州諏訪にも交差し
移動していった、超久な旅の終着点だ。
古墳時代に入り、神功皇后が壱岐・対馬から三韓征伐へ向かった時代には
神功皇后に使えた忠臣・武内宿禰(竹内文書の起源となる方で或いは忠臣ではなく王だったとの異説もある)が礼を尽くして、海神族の安曇磯良丸を自軍に迎え入れ、三韓を征圧したという。
6世紀、古墳時代の終わりになると海神族で祭祀を司った安曇氏をはじめ海神族らは九州の歴史から姿を消す。そして、
朝鮮半島南端にあった伽耶の国々も姿を消していった。
海神族の祖神・穂高見命も、古事記日本書紀には登場せず、その後の海神族らの辿った各地に残る軌跡は、古事記・日本書紀には記され無かったヤマト以外の歴史を繋いでいると思われる。
或いは伽耶にも、、と興味がひかれるが別の機会にし
今一度、また諏訪に立ち返り、
あと2回ほど
諏訪のコアな投稿を綴りたいと思います😌✨
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△
最後に、更に脱線して海神族の事を😌🙏
(🙄伽耶どこいった?)
万葉長歌でも「ワダツミの手に巻く玉の様に」と、越の国の事が謳われるほど、宝玉と海神(ワダツミ)と越の国は縁がある。
対馬から越の国までの海神族の移動は、一隊が沿岸航法で先発し、本隊は残って拠点づくりをして、先発隊が次の拠点を見つけると本隊がまた拠点づくりにやってくるという、一面航海・一面拠点の堅固な移動手段だったのかもしれない。
建速式とでも言うべきか、、
神々の名に、建スサノオ命、速スサノオ命といった感じで、先に到着して国造りをした様な呼称がついているのも興味深い。
沿岸航法で拠点づくりをしながらの移動であれば、海神族は東南アジアから、古くは西アジアからやってきたという長距離移動説も頷ける。
世界で唯一?海神族の海中三角鳥居など「ユダヤ渡来説」があっても不思議ではない。
海神族の安曇氏の子孫・安曇比羅夫は、七世紀の白村江の戦いの後にオホーツクからアリューシャン列島を渡りアラスカまで移動しその後、ネィティブアメリカンのズニ族の始祖となったという説もあり、海神族は地球🌏を半周したことになるが、コロンブスの帆船時代より千年以上前の事であり、やはり一面航海・一面拠点の沿岸航法で進んでいったのだろうか。
聖なる国 日本✨海神族のルートが凄い🚤
最後まで読んで下さってありがとうございました。
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