いつも私のブログを見てくださっている皆さんへ
お詫びとお礼
私のブログを英語に関して何か得られるものはないかと訪れてくださる皆さんに対し、ここ5回、私のつたない英語での極めてプライベートな手紙をお見せすることになったこと、本当にすみませんでした。そして、一度でもその手紙を読んでいただいたようでしたら、ありがとうございます。ただ、もし読んだことで何か違和感を感じられた方がいらっしゃいましたら、すみませんでした。心よりお詫びいたします。私の気持ちを形にして残しておきたいと思った時に、また、それが英語でなければならないこともあり、このブログを使わせてもらった次第です。ご理解いただければ幸いです。今回は皆さんに日本語でこれまでの一連の手紙の背景と、私の息子、Rioのことについてお話させていただき、それを最後にまたいつものブログに戻そうと思います。少し長くなりますが、もうしばらくお付き合いいただけるようなら大変光栄です。また、Rioという人間の描写と親子の関係の話から、異文化理解、アメリカの文化、あるいは親子の関わり合い等について、少しでも何か新しいことを知っていただくことができれば幸甚です。
Rioの話#1
私の息子である、西村理央ジャスティン(Rio Justin Nishimura)は、日本時間、先週の火曜日(令和2年5月19日)の午後、32歳で他界しました。Rioは、私がイリノイ大学シャンペーン・アーバナ校の大学院で勉強を始めた次の年に生まれました。私は父親としてRioの面倒をみながら5年間ほど大学院で勉強を続けましたが、事情があり、私だけが日本に戻ることになり、その後の10数年間は別居することになりました。私は、彼と母親が大阪に戻るまでは一年に数回、多くて3回でしたが、アメリカに戻って数週間だけ家族と過ごすという生活を続けましたので、Rioとは5歳から16歳くらいまで一緒に生活することはなく、彼の成長を身近で見ることはできませんでした。また、彼らが日本に戻ってからも、Rioが大阪のInternational Schoolに通ったため、結局、私がアメリカを発って以来、家族3人で一緒に過ごすことはありませんでした。
私がRioと一緒に暮らしたのは、彼がカナダのバンクーバーにある大学に行く前の10ヶ月のみです。その時母親は大阪におり、Rioだけが私がいる宮崎に来ました。彼は私のアパートの一室、6畳の部屋に住むことになりましたが、もともとアメリカで育ってきたこともあり、また、大阪とは違う地方で友人もいない、将来の目的もない中での一人の時間が多い環境に耐えかね、苦しみ、当初は手に負えないくらい荒れていました。私に当たることは決してありませんでしたが、物には当たり、私が仕事から帰った時には多くの物が壊れていたことが日常茶飯事といった具合でした。当初私は文句を言ってぶつかりましたが、そのうち、彼が苦しんでいることに気づき、それからは文句を言うことを止め、いつも壊れた物を静かに片付けることにしました。そうすると、次第にRioも自分が壊したものを一緒にかたづけてくれるようになり、奇妙な静寂の時間を何度か共に過ごしたことを思い出します。しかし、最初の数ヶ月は、私にとって家に帰るということは、正直、苦しみ以外の何物でもありませんでした。毎日帰る度に心臓が高まり、今日は何か起こっていないかと、ドアを開けるまでは緊張の連続でした。Rioにとっても辛い時期であったと思いますが、私にとっても、とてもしんどい時期でした。
しかし私は、Rioとの関係をなんとかいい方向に持っていくために多くの努力をしました。毎日、お昼は自宅に戻り一緒にご飯を食べ、夜は一緒にご飯を作ったり、あるいは、外食したりして精一杯同じ時間を過ごすようにしました。休みは一緒にテニスをしたり、何かを見に外出したりしました。そうこうしているうちに、やっとRioも心を開いてくれるようになり、笑うようになり、いつの間にか、帰宅してご飯を食べるとすぐ、一緒に映画やドラマを観るのが習慣になりました。もちろん、英語物ですが…。一緒に過ごした時間のうちの最後の数ヶ月は、親子のつながりみたいなものが出来たような気がします。そして10ヶ月後、Rioはカナダに旅経ちました。それから14年…一度も会うことがないまま、Rioはこの世を去りました。(End of #1)
お詫びとお礼
私のブログを英語に関して何か得られるものはないかと訪れてくださる皆さんに対し、ここ5回、私のつたない英語での極めてプライベートな手紙をお見せすることになったこと、本当にすみませんでした。そして、一度でもその手紙を読んでいただいたようでしたら、ありがとうございます。ただ、もし読んだことで何か違和感を感じられた方がいらっしゃいましたら、すみませんでした。心よりお詫びいたします。私の気持ちを形にして残しておきたいと思った時に、また、それが英語でなければならないこともあり、このブログを使わせてもらった次第です。ご理解いただければ幸いです。今回は皆さんに日本語でこれまでの一連の手紙の背景と、私の息子、Rioのことについてお話させていただき、それを最後にまたいつものブログに戻そうと思います。少し長くなりますが、もうしばらくお付き合いいただけるようなら大変光栄です。また、Rioという人間の描写と親子の関係の話から、異文化理解、アメリカの文化、あるいは親子の関わり合い等について、少しでも何か新しいことを知っていただくことができれば幸甚です。
Rioの話#1
私の息子である、西村理央ジャスティン(Rio Justin Nishimura)は、日本時間、先週の火曜日(令和2年5月19日)の午後、32歳で他界しました。Rioは、私がイリノイ大学シャンペーン・アーバナ校の大学院で勉強を始めた次の年に生まれました。私は父親としてRioの面倒をみながら5年間ほど大学院で勉強を続けましたが、事情があり、私だけが日本に戻ることになり、その後の10数年間は別居することになりました。私は、彼と母親が大阪に戻るまでは一年に数回、多くて3回でしたが、アメリカに戻って数週間だけ家族と過ごすという生活を続けましたので、Rioとは5歳から16歳くらいまで一緒に生活することはなく、彼の成長を身近で見ることはできませんでした。また、彼らが日本に戻ってからも、Rioが大阪のInternational Schoolに通ったため、結局、私がアメリカを発って以来、家族3人で一緒に過ごすことはありませんでした。
私がRioと一緒に暮らしたのは、彼がカナダのバンクーバーにある大学に行く前の10ヶ月のみです。その時母親は大阪におり、Rioだけが私がいる宮崎に来ました。彼は私のアパートの一室、6畳の部屋に住むことになりましたが、もともとアメリカで育ってきたこともあり、また、大阪とは違う地方で友人もいない、将来の目的もない中での一人の時間が多い環境に耐えかね、苦しみ、当初は手に負えないくらい荒れていました。私に当たることは決してありませんでしたが、物には当たり、私が仕事から帰った時には多くの物が壊れていたことが日常茶飯事といった具合でした。当初私は文句を言ってぶつかりましたが、そのうち、彼が苦しんでいることに気づき、それからは文句を言うことを止め、いつも壊れた物を静かに片付けることにしました。そうすると、次第にRioも自分が壊したものを一緒にかたづけてくれるようになり、奇妙な静寂の時間を何度か共に過ごしたことを思い出します。しかし、最初の数ヶ月は、私にとって家に帰るということは、正直、苦しみ以外の何物でもありませんでした。毎日帰る度に心臓が高まり、今日は何か起こっていないかと、ドアを開けるまでは緊張の連続でした。Rioにとっても辛い時期であったと思いますが、私にとっても、とてもしんどい時期でした。
しかし私は、Rioとの関係をなんとかいい方向に持っていくために多くの努力をしました。毎日、お昼は自宅に戻り一緒にご飯を食べ、夜は一緒にご飯を作ったり、あるいは、外食したりして精一杯同じ時間を過ごすようにしました。休みは一緒にテニスをしたり、何かを見に外出したりしました。そうこうしているうちに、やっとRioも心を開いてくれるようになり、笑うようになり、いつの間にか、帰宅してご飯を食べるとすぐ、一緒に映画やドラマを観るのが習慣になりました。もちろん、英語物ですが…。一緒に過ごした時間のうちの最後の数ヶ月は、親子のつながりみたいなものが出来たような気がします。そして10ヶ月後、Rioはカナダに旅経ちました。それから14年…一度も会うことがないまま、Rioはこの世を去りました。(End of #1)