ちゅう年マンデーフライデー

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視界を横切るエトランジエ、小沼丹の短編小説が面白い

2008年02月26日 | 
 小沼丹の小説がお面白い。島村利正の全集を出すというアクロバチックな出版社「未知谷」が、全4巻+補巻の「小沼丹全集」も出すという離れ業をやっていて、いま、小沼丹を読むには講談社文芸文庫「懐中時計」「椋鳥日記」、創元推理文庫「黒いハンカチ」くらいしか簡単には手に入らないので、初期の傑作「村のエトランジエ」などを読もうと思えば、この未知谷の全集にあたるしかない。とりあえず、ほとんど読まれていない第1巻を図書館で借りたのだが、一巻12,600円、それでもこれはほしい一冊だ。

 「村のエトランジエ」は昭和29年、その翌年「白孔雀のゐるホテル」で芥川賞候補になり、その後も多くの作品を発表しているにもかかわらず、「政治と文学」「性と文学」が論議され、政治性や過激な性を身にまとった文学が支持された時代のぼくの文学体験の中には、不幸にも小沼丹の名前が登場することはなかった。小沼丹の小説はどちらにも無縁に見えるからだが、実は、男女の性と戦争は作品の通奏低音ではある。10代の頃、小沼丹を読んで面白いと思ったかどうかは分からないが、こうして齢を重ね、偶然書店で手にしたことで出会ったことに感謝だ。

 「村のエトランジエ」などの初期作品は、後期の「大寺さんもの」に倣うなら、「エトランジエもの」と呼べるのではないか。それは、静かな避暑地や郊外の町に、不意に視界に現れるエトランジエ(赤いダリアの花を胸に飾った女、美人姉妹、サングラスの女など、少年や思春期の男が関心をもつ女であることが多いが、語り手の「僕」は相手にされない)が、その出現によって村や町の日常に揺らぎを起こし、「僕」やその周辺の人たちは、遠巻きにその小さな出来事に好奇な目を注いでいくのだが、たいがい急な展開(それは、縊死や落下という垂直運動であることが多い)で、ひと夏の事件は幕を閉じる。実は、エトランジエを気にかける語り手である「僕」も、よそ者のエトランジエで、不意の訪問者への共感は、事件の収束とともに、僕の中の「虚無」を露出させることになるのだった。それは、事件後も何もなかったように横たわる風景であり、あるいは数年後に、戦後の開発で変わった風景と、それを眺める「僕」として表されるのだが、その情景がすばらしい。

 とりあえず、講談社文芸文庫「懐中時計」を読まれよ。

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