甲斐さんは「『ロッカーは青白い顔とキュートなヒップがあればいい』(笑)
…と思われていた時代があった」とよく口にされてますが
それは、1973年の英国でも同様で
「ロッカーは青白く細い美少年」との風潮の中
ペルシャ系インド人のフレディは異質な存在だったようです
映画の中で「パキ(スタン人)!」と呼ばれたり
「出っ歯」を揶揄されるシーンがあったけど
この番組でも、デーモン小暮閣下が
「イヤ、ゲイに行く前にもう2つくらいあると思うけどね、我輩は…
あの人、純粋な白人じゃないですよね
英国においての何らかの移民であったり
どっかインド系だったり、そういった血が入ってる
そういうことでの差別やイジメもね
やっぱり、小さい頃、絶対あったはずなのよ」と指摘
「生前は、移民であることや自らの宗教を明かさなかった」とのナレーションは
映画の「メンバーを実家に招いたシーン」で
フレディの家族が話すことに、いちいち驚くメンバーと
その話題に触れたがらないフレディの様子からも事実だと思われますが
イラン・イラク文化研究家のファルーク・ヴァジブダー氏は…
「ゾロアスター教は、選択の自由を認めた宗教です
ゾロアスターは『自分の教えの中から良いものを選べ』と言っている
だから、この曲もとても個人的なものです
彼の内面や人間関係、心の葛藤を表している」…として
「フレディの個人的な問題を歌った歌」
【ボヘミアン・ラプソディ】のオペラパートの歌詞を解説
「小人のシルエットが浮かんで見える
スカラムーシュ スカラムーシュ ファンダンゴをしてくれるかい?
稲妻に雷鳴 とてもとても怖いよ
ガリレオ ガリレオ ガリレオ ガリレオ ガリレオ・フィガロは貴族」…について
「『スカラムーシュ』はイタリア喜劇の登場人物で、人間の葛藤を
『ファンダンゴ』はスペインの踊りで
抑圧された感情の解放」を表し
「僕はただの貧しい少年で 誰にも愛されない
彼は貧しい家庭に生まれた 貧しい少年
その怪物性から 彼の命を救いたまえ」…について
「『貧しい家庭』というのは、物理的貧しさではなく
現実の家族から、ファンタジーの家族の世界に行きたがっている」と分析
「ふらっと来ては去る 僕を行かせてくれるのか?
ビスミラ!いや行かせはしない 行かせてあげて
ビスミラ!行かせはしない 僕を離して
決して 決して 決して 決して離さない」…について
「『行かせて』に対する答えは『ビスミラ』
イスラム教の神です!」と断言するヴァジブダー氏
でも、その直後に、助監督さんがカメラマン・ドット氏に
「『ビスミラ』って誰だ?」と訊ね
ドット氏が「あれは、フレディの学校の先生で
すごく厳しかったらしいよ(笑)」と答えるシーンが…(笑)
オペラパートに続くハードロックパートへと話は移り
再び、デーモン小暮閣下が登場
「この曲で『一番言いたいこと』は一番最後で…
『お前ら、俺に石を投げて、唾を吐きかけられると思ってるだろ?
そんなことが出来ると思ってるだろ?
お前らにそんなことは出来ないぜ
ただ出てくだけだ 俺の前からいなくなるだけだ』って突っぱねる訳よ
自分は、みんなからちょっと疎外された存在…
あるいは仲間はずれ、あるいは変わり者
何らかの、ちょっと冷たい目で見られてるかも知れないけれども
でも『今に見てろよ』と…『何とかなってみせるぜ』っていう強いメッセージを
この曲から受け取れる訳ね」と自説を披露
ティム・スタッフェル氏も「『僕はこういう人間だ
気に入らなきゃ勝手にしろ
これ以上、自分を偽ることはしない』と言ったのだと思う」と話してました
そして…【ボヘミアン・ラプソディ】というタイトルにも関わらず
「ボヘミアン」という言葉が一言も出て来ないことについての考察へ…
「チェコの西、ドイツとの国境に接するボヘミア地方には
古くから漂泊の民族であるジプシーが住んでいた
社会から疎外され、放浪する一方で
習慣や規則にとらわれない自由な生き方
それに憧れる芸術家たちは自らを『ボヘミアン』と名乗った」…との説明から
「イギリスを代表する『ボヘミアン』オスカー・ワイルド」の小説
「ドリアン・グレイの肖像」に話が転がり、奥さん萌え~♪(笑)
幼い頃から、勧善懲悪モノの正義の味方「絶対的ヒーロー」よりも
「ダークヒーロー」にミョーに惹きつけられた子供(笑)にとっては
「ドリアン・グレイ」は避けて通れない名作だったらしく(笑)
小説はもちろん、映画も繰り返し観たようで
甲斐さんが「ドリアン・グレイ」の話をなさった時には…以下省略(笑)
「主人公は絶世の美少年ドリアン・グレイ
彼自身は、美しさや若さを失わない代わり
彼の肖像画が醜く老けていくという奇妙で幻想的な物語」を
「フレディは読んでいたでしょう」と
ヴァジブダー氏は、再び断言(笑)
「【ボヘミアン・ラプソディ】というタイトルは偶然ではありません
『ボヘミアン』は、習慣にとらわれない人々
『ラプソディ』は、感情的で自由な音楽の形式
2つ併せることで、フレディ自身の正に自伝的作品になった」と語り
助監督さんは「1975年に歌の意味を訊いたんです
彼はピアノに座り『小人の影が見える』としか言わなかった」と明かし
フレディのママは「初めてラジオで聴いた時、ショックで言葉を失った
哀しい詞だから、彼に意味を訊いたの
『ただのお話…僕にも説明できない』と彼は答えたのよ」と話してましたが
奥さんは、クイーンの伝記を著したジム・ジェンキンス氏が言った
「モナリザのように、様々な解釈が自由に出来る作品こそ素晴らしい
笑っていると思えば笑うし、怒っているか困っているか、解釈は人それぞれ
【ボヘミアン・ラプソディー】も同じだよ」という言葉に
甲斐さんがおっしゃった「書き手にはもちろんその曲を書いた動機があるけど
聴き手はそれぞれの動機で聴く訳だから
いったん世に出したら、あとは好きなように聴いて貰えばいい」という言葉が重なり
また、ギタリストのジョン・ライドロウ氏が
「僕は、彼が何を書いたか?深読みするのは止めておく
ただ、一生に一度、こんな詞を書ける時がある
空から言葉が頭の中に降りて来るように…」とコメントしたのを聴いて
「ひとりのシンガーがさ、10年、15年…歌ってたとしたら
当人が『来た来た』っていう
『歌を歌う自分』を感じられる時は、たぶん1回か2回だね
ものすごくてめえ自身がシビアにならざるを得ない時っていうか
てめえ自身が最高のボルテージなんだっていう感じで作った歌なんかでさ」
…という甲斐さんの言葉を思い出し
しかも、その曲が【漂泊者】だったことも
フレディが、自分自身を「漂泊の民族ジプシー」になぞらえたかのような
【ボヘミアン・ラプソディ】とダブったみたいで
またしても、この曲の関連動画を漁り始めました(笑)