奇跡のコース/奇跡講座で生きる! 愛を阻む障壁を超え、本当の自分を思い出そう【真我なるハート】

2018年10月から奇跡講座の学び実践の奥深さを思い知って、本当の妥協のないプランAの実践で歩むことを望んでいます

非二元ではなく、純粋非二元の観点から

2015年08月10日 15時44分00秒 | ACIM奇跡のコースという生き方
先ほど投稿させていただいた記事の補足です。

言葉や、世界についての概念の言語化には、どうしても矛盾がはらむというか、、


「この部分は、こういうことで

そして、こちらについてはこういうことです。

ゆえに、こうである。と言える。」


という感じになることは、ある意味仕方がないことなんですね。

↓こんな時、この言葉を思い出します。


しかし、言葉は象徴の象徴にすぎないということを、忘れてはならない。
したがって、言葉は実相からは二重に隔てられている。
M-21.1:9~10 奇跡講座マニュアル編 P124(中央アート出版社)



意識と世界を

非二元の観点から見るか?

純粋非二元の観点から見るか?

で、、相当変わってきてしまいます。


先ほどの投稿は、純粋非二元の観点から見ての言葉なのですが

非二元の観点から見ると、矛盾が生じますね。




非二元から見ると、意識と、幻想世界は別ものだと言えます。

ある意味そうだし、その見方は意識の目覚めの ある一定の段階までは非常に助けになります。

しかしながら、非二元では意識を源と見なしており、分離のスタートをゴールと見なしているので

真のゴールを見逃している状態止まりですね。



けれども、純粋非二元から見ると、そうとも言えるが

結局のところ

意識と世界は同じ一つの幻想だ。と言えます。


投影している者も、投影された宇宙も、同じ一つの幻想で

一つの構造物だ。

そのシステム、仕組み、仕掛けが解除されたなら、すぐさまそれは終了できる。

(既に終了していたことを認識した、正気の状態になり、終了を受け入れる。の方がより正しいです^^;)



奇跡講座で言うところの(というか、ワプニックさんが使っていた言葉かな。)決断の主体による認識の変化が重要なのですね。




「終わってたのかよ!じゃあ、終わりだ。。」

と、決断の主体としての「私」が、芯から降参することなんだなと

完全降伏することなんだと


「それだよ」と、最近思うのです。



「私」が、その状態にたどり着くには、いくつかのルートがあります。

どのルートからかなのか?が重要なのではなく

「私」が、本当に完全降伏することが、重要なのですね。





非二元と、純粋非二元についての明らかな違いは

自分に教え続けていなければ、いつの間にかヒョイっと

自分の中の自我の部分によって、すり替えられてしまいます。

意識という仕掛けが、そういう仕組みでできているから、それは当たり前のことと言えます。


やはり、日々、自分に対してその明らかな違いは確認していった方がいいだろうなと

そういう結論になってきています。(とは言え、その方その方の 今、無理のない分ずつだけでOKです)




2015年7月の勉強会では、赦し方に関連して非二元と、純粋非二元との明らかな違いを学び合えました。

神への信仰の状態は、純粋非二元でなければならないということも学びあえて

とてもよかったなあ。と、皆さんに感謝しています。

何もわからなくなってしまった私たちを導いてくれている聖霊の導きに感謝しています。








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