9月29日〜30日にいろいろと起きていました。
よくデイヴィッドたちがこの世界でいうところの「血の繋がった家族、血の繋がった親、子」について語るとき
いちいち「生物学上の母」といった言い方をするのだけど、わざわざ生物学上の(言いたいニュアンスは肉体レベルにおいてのファミリー関係だと思う)
と表現するのか、不思議に感じている時期があったのだけども(彼らがしばしばそういう言い方をしてるのを2018年ごろ知った)
カッコつける意味ではなくて、本当に私も「生物学上の親、子」という言い方がとてもしっくり来るなあと感じています。
なぜなら、私にとっての父親は本当は神と同一だったという圧倒的な経験をしているし
母も彼女があんな枯れ枝みたいになって朽ちることのできるようなしょぼい存在なわけがないじゃんと強く感じるし
(彼女も真の姿は圧倒的にスピリット)
血の繋がりがなく、赤の他人という設定の旦那さんですら、イエスと同一人物だったと体験させてもらえた。
愛犬のチップも永遠の愛でいつも私と一緒にいてくれていると感じる。その影響なのか犬だけに限らずあらゆる動物に愛を感じるようになってきている。
虫にさえも。。
まだこの世界でともに生きているかに見える娘たちも同じで、いまのところ彼女たちは私のお腹から生まれた血の繋がった子供
というよりも、もっと深い繋がりのマイティーコンパニオンとしてみえてきている。
マイティーコンパニオンとともに、目覚めの道を淡々と生きる。という感じ。
すると、必然で
彼女たちも「本当の自分という自覚が復活する以外にはどこにも逃げ道がないんだな」と感じられるような限界にぶち当たっているようだ。
心療内科に通えば、薬を処方してもらえるだろうし、診断書ももらえるだろう。
上の子は特にその傾向が強まっているし、実際に通っている。
しかし、実のところ私はそれについて安心感を感じているのだ。
死にたくなるくらいのギリギリの絶望の淵にいるとき【そこにこそ、恩寵の扉がある】と私は経験から知っている。
間違いなく聖霊がはたらいて寄り添ってくれている。
ありえないくらいの恩恵の光が与えられている。
というのもあり、このロールプレイングゲームという世界の中の
生物学上の母と子というキャラクターは親子ではなくて「マイティーコンパニオン」
その感覚がとても強まっていて、それこそが自由だと感じる。
上の娘は毎日複数の薬が必要なくらい、精神的に不安定で幻聴もある。
下の子も無価値感に苛まれて死にたくなる誘惑があがるのだそう。
それは、あまり良い状況ではないと言うこともできるのかもしれない。
しかし私の眼には「チャンス」に見えている。
聖霊につながり、聖霊を信じて、何があっても光に心を向けていくための
訓練にもなる「チャンス」に見えている。
3日前、夜明け前に次女があわや急性アルコール中毒になりかけて、救急車を呼ぶかどうか祈ったくらいの状態が勃発した。
祈った結果、吐き気が落ち着くまでの数時間はトイレの床に座っているようにとすすめた。
飲みたくなくても少しづつ水を飲ませる。するとまた大量に吐く、を繰り返した。
私の就寝中に嘔吐が始まっていたらしい。
彼女の部屋は嘔吐の海、それはラファエルが率先して掃除してくれた。
2階の廊下でも嘔吐したので、そこは娘の面倒を見ながら私が拭き掃除をする。
事態が収束したのは30日の朝7時。
娘の吐き気は収まり、汚れていないベッドに臨時で寝ることにした。
この一連のことを、淡々とやって生きながらも、誰も犠牲者になれない。
起きるべきことが起きて、するべきことを淡々としていく。
設定は、自暴自棄気味でお酒を大量に飲んだ生物学上の娘、ではあるが
そうではなくて、自暴自棄気味でお酒を大量に飲んだマイティーコンパニオン。
その仲間を手伝った、助けた、という感じ。「ファミリーという特別感」が脱落している。
時間はさかのぼり
その嘔吐が発生する3時間前には、長女に書類を届けるために彼女の家までドライブをした。
彼女の家は、私の想像をこえた超高層マンションでその40階に住んでいるらしい。
外観とエントランスを見て笑ってしまった。。
きらびやかなマンションに住み、衣食住には困らない状態。(お小遣いはたくさんあるわけではないけど)
でも、その状況で精神は病む。
死にたくなる。
という経験をしているのは最善なのだろうと思う。彼女も明らかに浄化が加速していってる。
どんな生活ぶりか?
どんな素敵な場所に住んでいるか?
どんな立場の人と一緒にいるのか?とか
それらの状況は、幸せとも苦しみとも一切関連していない。
その状況に対する「判断・解釈」のみによって、人は苦しみ自暴自棄になったり、絶望したり、逆に、真に平安に浸ることもある。
ありのままにみることが困難になってしまっている理由は「心が複雑奇怪な自我の構造に依存してしまっているから」
そう。自我に依存し、自我に助けを求めている時にのみ、私たちは苦しむ。
生物学上のファミリー全体でも浄化が加速していく。。すべては最善のために起きている。
よくデイヴィッドたちがこの世界でいうところの「血の繋がった家族、血の繋がった親、子」について語るとき
いちいち「生物学上の母」といった言い方をするのだけど、わざわざ生物学上の(言いたいニュアンスは肉体レベルにおいてのファミリー関係だと思う)
と表現するのか、不思議に感じている時期があったのだけども(彼らがしばしばそういう言い方をしてるのを2018年ごろ知った)
カッコつける意味ではなくて、本当に私も「生物学上の親、子」という言い方がとてもしっくり来るなあと感じています。
なぜなら、私にとっての父親は本当は神と同一だったという圧倒的な経験をしているし
母も彼女があんな枯れ枝みたいになって朽ちることのできるようなしょぼい存在なわけがないじゃんと強く感じるし
(彼女も真の姿は圧倒的にスピリット)
血の繋がりがなく、赤の他人という設定の旦那さんですら、イエスと同一人物だったと体験させてもらえた。
愛犬のチップも永遠の愛でいつも私と一緒にいてくれていると感じる。その影響なのか犬だけに限らずあらゆる動物に愛を感じるようになってきている。
虫にさえも。。
まだこの世界でともに生きているかに見える娘たちも同じで、いまのところ彼女たちは私のお腹から生まれた血の繋がった子供
というよりも、もっと深い繋がりのマイティーコンパニオンとしてみえてきている。
マイティーコンパニオンとともに、目覚めの道を淡々と生きる。という感じ。
すると、必然で
彼女たちも「本当の自分という自覚が復活する以外にはどこにも逃げ道がないんだな」と感じられるような限界にぶち当たっているようだ。
心療内科に通えば、薬を処方してもらえるだろうし、診断書ももらえるだろう。
上の子は特にその傾向が強まっているし、実際に通っている。
しかし、実のところ私はそれについて安心感を感じているのだ。
死にたくなるくらいのギリギリの絶望の淵にいるとき【そこにこそ、恩寵の扉がある】と私は経験から知っている。
間違いなく聖霊がはたらいて寄り添ってくれている。
ありえないくらいの恩恵の光が与えられている。
というのもあり、このロールプレイングゲームという世界の中の
生物学上の母と子というキャラクターは親子ではなくて「マイティーコンパニオン」
その感覚がとても強まっていて、それこそが自由だと感じる。
上の娘は毎日複数の薬が必要なくらい、精神的に不安定で幻聴もある。
下の子も無価値感に苛まれて死にたくなる誘惑があがるのだそう。
それは、あまり良い状況ではないと言うこともできるのかもしれない。
しかし私の眼には「チャンス」に見えている。
聖霊につながり、聖霊を信じて、何があっても光に心を向けていくための
訓練にもなる「チャンス」に見えている。
3日前、夜明け前に次女があわや急性アルコール中毒になりかけて、救急車を呼ぶかどうか祈ったくらいの状態が勃発した。
祈った結果、吐き気が落ち着くまでの数時間はトイレの床に座っているようにとすすめた。
飲みたくなくても少しづつ水を飲ませる。するとまた大量に吐く、を繰り返した。
私の就寝中に嘔吐が始まっていたらしい。
彼女の部屋は嘔吐の海、それはラファエルが率先して掃除してくれた。
2階の廊下でも嘔吐したので、そこは娘の面倒を見ながら私が拭き掃除をする。
事態が収束したのは30日の朝7時。
娘の吐き気は収まり、汚れていないベッドに臨時で寝ることにした。
この一連のことを、淡々とやって生きながらも、誰も犠牲者になれない。
起きるべきことが起きて、するべきことを淡々としていく。
設定は、自暴自棄気味でお酒を大量に飲んだ生物学上の娘、ではあるが
そうではなくて、自暴自棄気味でお酒を大量に飲んだマイティーコンパニオン。
その仲間を手伝った、助けた、という感じ。「ファミリーという特別感」が脱落している。
時間はさかのぼり
その嘔吐が発生する3時間前には、長女に書類を届けるために彼女の家までドライブをした。
彼女の家は、私の想像をこえた超高層マンションでその40階に住んでいるらしい。
外観とエントランスを見て笑ってしまった。。
きらびやかなマンションに住み、衣食住には困らない状態。(お小遣いはたくさんあるわけではないけど)
でも、その状況で精神は病む。
死にたくなる。
という経験をしているのは最善なのだろうと思う。彼女も明らかに浄化が加速していってる。
どんな生活ぶりか?
どんな素敵な場所に住んでいるか?
どんな立場の人と一緒にいるのか?とか
それらの状況は、幸せとも苦しみとも一切関連していない。
その状況に対する「判断・解釈」のみによって、人は苦しみ自暴自棄になったり、絶望したり、逆に、真に平安に浸ることもある。
ありのままにみることが困難になってしまっている理由は「心が複雑奇怪な自我の構造に依存してしまっているから」
そう。自我に依存し、自我に助けを求めている時にのみ、私たちは苦しむ。
生物学上のファミリー全体でも浄化が加速していく。。すべては最善のために起きている。