たった3年弱で、ある一件についての聖なる瞬間が訪れた。。。たった2時間前にそれはおきた。
そのある一件を引き金として
私の中に、ここでは言語化を控えておこうと思うくらいの
(その言語化は過去に何段階も何段階も相当その闇を見つめたのでもう十分)
「超激怒が忍ばされていた!!!」
ということに気づかせていただいたあるレッスンがあった。
それは、テロリストもびっくりするような超激怒だった。
惑星1個でも2個でも、全宇宙の破壊もなんのその。
そういう怒り。
私たちは実際「少しだけ怒る」「少しだけイラつく」「軽く動揺する」ということは不可能だ。
常に同じだけの「分離の力動100%」を、強弱という序列の差をつけてボリューム調整していただけだった。
もしも、ちょっとだけイラっとしたなら、ビッグバンを引き起こすレベルの凄まじい怒りを認識したのも同じ。
2015年の今頃から、2018年2月くらいまで
激しい激怒が断続的に認識されていた。
怒りは、実は「自分には罪があるのです」と声明しているようなものなのだけど
そうであることを認めるには、自分が怒りを感じている。しかもマックスの怒りを感じているということを
自他を裁く事なく認識することを許可する必要がある。
そのレッスンを受け入れることができたきっかけは、
やはり2015年の今頃のレッスンだった。
今となっては
聖霊が、このレッスンを与えてくださったことがあまりにも明確だ。
ありがたいレッスンだった。
数時間前、その兄弟を神の子キリストとして
私の源に迎え入れる意志をするより先に
その兄弟は
すでに源にいた。
私と一つだった。
赦す必要が全くなかった。
赦しって自分がすることじゃないんだなあ。。
準備が整った時、すでに一つであったことに気がつく。
一生懸命、何度も赦すから、
一つであったことに気がつくことができるわけでもない。
何だか、、、パラドックスだなあ。
いつもそう思う。
いかに天国を抑圧して、縛り上げていたのか。。。ということに気がついたら
真の赦しまでは
一生かかるかもしれない。
と思っていた兄弟が、すでに私の救済者として賛美されていた。
そして私の中にいた。
ありがたくて、ありがたくて、泣いた。
ありがとう、愛しているよ。
ありがとう
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