自分の見たいように見て
自分が考えたいように考えるのをやめない限り
本質を見ることはできない。
好き勝手をやめない限り、本質は見えない。知れない。
だから誰もが
「自分で結論付けるのをやめるしかないのか」
とわかってくるはずなんだ。
とどのつまり、これは全部自分の自作自演・捏造物語だったと理解するのだろう。
あの交通事故の乗用車の運転手としての相手と
その乗用車とぶつかった旦那さんという2人の間で引き起こったかに見えた物語
その物語をどのように見て、解釈して、その上で
自分という夢見る心の断片が
個人の私というフィギュアを使って、どのように振る舞い演じるかは
結局のところ、誰とその物語を見るのか?にかかっていただろう。
2012年7月のあの日、あの瞬間、私にとっては選択肢がなかった。
「こう見たい」「こう感じたい」もなかった。
知覚のレベルでこう見たいとか、こう感じたいとかじゃなかった。
ただ、これらが全部自分(という意識)がスクリーン上に映し出している物語にすぎず
加害者と呼ばれる肉体も、被害者と呼ばれる肉体も本物ではないと知った。
もしも万が一、肉体が本物なのだとしたら
旦那さんという彼はもともと存在していなかったはずで
存在していなかったとしたら、、今までは一体なんだったのか?
という事実にぶち当たる。
彼は確かに存在していた。
でも、肉体としては一度も実在してはいなかったのだ。
その証拠に、今まさに彼の肉体は終了しようとしている。
終了できるものが、過去現在未来において実在だったはずがないのだ。
終了できるものは、最初から幻想・幻影・幻覚だったのだ。
理論ではなく、それが当然と知った。
目の前の旦那さんの肉体が終了しつつある中、その真実を受け入れる覚悟を決めたように感じる。
というわけで、自分で幻想を赦すとか、自分で幻想を訂正するとかじゃなくて
不可能を不可能と完全に受け入れ、実在を実在と受け入れるだけだったのだ。
「私が赦す」とかじゃない。
私は何もしない。
不可能を不可能とすでに告知されているのだから
その、不可能を不可能だったと受け入れるだけなんだ。
とにかく、それを拒絶しているのが私たちの根本的な問題だ。
その根本的な問題まで本当に巻き戻って、聖霊による訂正を受け入れるために
まずは
正直であり、虚勢を張らず、透明であり、素直な心に戻っていくしかないと思う。
⭐️大切なこと⭐️ 奇跡講座/奇跡のコースを学び実践するための心得