もしも「私」に、「存在にまつわる根本的な罪がない」のだとしたら
その「私」は
誰かに何かを主張する必要があるだろうか?
誰かにわかってもらう必要があるだろうか?
誰かに認められる必要があるだろうか?
誰かに愛される必要があるだろうか?
(そもそも愛されていないはずがないのだから)
最初から罪がなければ、無罪を証明することも不要だし
無罪性の証拠をそろえる必要も皆無なのだ。
精神的に、何一つ証明をする必要がない。
私のために、すでに神がその御意志をなさっているので
神の御意志のとおりに従うのみだ。
そういう意味で、何もする必要がない。
神の意志の中、その目的のために形態レベルではたくさんのあれやこれをするだろう。
でも、それも起こるべきことが起こるままに起きている。
すべては計画通り。それを成す「私」というレベルで意志するのでもない。
ただ神の目的のために、使われるままに使われ、なさしめられるままになさしめられるだけ。
たったひとつの「私」の責任は
夢見の、真の原因の場所へ戻ってそこで聖霊からの答え(訂正・贖罪)を受け入れることだけ。
原因は無だという答えを本気で受け入れること。
夢の原因が無なら、夢も無だったのだ。
何もする必要がない、夢について何も知らない「私」に巻き戻っていって
無知で、気楽で、面倒を見られている(養われている)「私」の自覚に戻っていくこと
(*青文字部分はデイヴィッドの言葉)
それが私たちの真のファンクション。