幻想に価値を見いだしている時
私たちは、無に価値を見いだそうとしている。
幻想に価値を見いだしている時
私たちは、神を否定している。
幻想に価値を見いだしている時
私たちは、自分自身を否定している。
それは、外側に意識が向いた状態。
無に意識が向いた状態。
それは、実相の否定、真理の否定のループ。
それは、自己攻撃。
自己攻撃と、自己攻撃に対する防衛を続けているだけ。
無に価値を見いだしたい誘惑があることを、ハッキリと認めてゆくと
はじめて、その狂気をやめてゆける。
奇跡講座テキスト編(中央アート出版社)
P264
T-10.6:3~6
あなたは神を否定したが、それはあなたが神を愛していたからである。
もし神への愛を自覚すれば神を否定できなくなるということを、あなたは知っていた。
したがって、あなたが神を否定したということは、あなたが神を愛しているということであり
また神があなたを愛していることもあなたは知っているということを意味する。
あなたが否定するものは、かつて知っていたはずのものだということを、覚えておきなさい。
そして、否定したということを受け入れるなら、あなたはその取り消しをも受け入れることができる。
P265
T-10.5.10:1~4
あなたがどれほど自分自身を否定してきたか、そして、神が、ご自身の愛の中で、
どれほどあなたにそうさせたくないと思っているか、あなたは気づいていない。
だが、神があなたに干渉することはない。
なぜなら、神の子が自由でなかったなら、神がわが子を知ることはないからである。
あなたに干渉することは神ご自身を攻撃することと同じだが、神は気が狂ってはいない。
神を否定しているとき、あなたの気が狂っているのである。
幻想に価値をみることが罪なのではなくて、
「いかに、そう見ているかということに気がつきましょう。
それは、神の否定であったのだと気がつきましょう。
そして、それを少しずつやめてゆく意欲を持ちましょうね。」
ということなんですね。
「何もかも、今すぐ捨て去らないといけません!」
と言われているのではなく
言い訳せずに、やり残した感があることは何でもやりつつ、やりきってしまえば良いのだと思うのです。
もしも、中トロが食べたい食べたい食べたい。と思っているなら
試しに1週間食べ続けてみれば良いと思うのです。
なんだかんだと言い訳をして食べないでいる時は、そこに救いがあるかのように見えますが
「え?塩むすびも、中トロも、同じじゃん??」
ということがわかります。(まだ自分を騙し続けていたい気満々の時期はわからないかも知れませんが^^;)
もし、一生遊んで暮らせるほどの大金を手にしても、やりたい放題に遊び尽くしてみると
数ヶ月~数年経てばわかるかも知れません。
(まだ自分を騙し続けていたい気満々の時期はわからないかも知れませんが^^;)
「え?大金持ちも、ホームレスも、同じじゃん??」
「幻想は、ほんとに序列の差がなくて一律なんだ!!そして無なんだ!!」
それをわかりたくない。
けど、それを知りたい!
という両面感情が、私たちの中にはあります。
両面感情も、あらゆる葛藤も、
すべての原因は一つです。
「神を否定したことが、現実になった。」と(無意識レベルで)思っているからですね。
.
私たちは、無に価値を見いだそうとしている。
幻想に価値を見いだしている時
私たちは、神を否定している。
幻想に価値を見いだしている時
私たちは、自分自身を否定している。
それは、外側に意識が向いた状態。
無に意識が向いた状態。
それは、実相の否定、真理の否定のループ。
それは、自己攻撃。
自己攻撃と、自己攻撃に対する防衛を続けているだけ。
無に価値を見いだしたい誘惑があることを、ハッキリと認めてゆくと
はじめて、その狂気をやめてゆける。
奇跡講座テキスト編(中央アート出版社)
P264
T-10.6:3~6
あなたは神を否定したが、それはあなたが神を愛していたからである。
もし神への愛を自覚すれば神を否定できなくなるということを、あなたは知っていた。
したがって、あなたが神を否定したということは、あなたが神を愛しているということであり
また神があなたを愛していることもあなたは知っているということを意味する。
あなたが否定するものは、かつて知っていたはずのものだということを、覚えておきなさい。
そして、否定したということを受け入れるなら、あなたはその取り消しをも受け入れることができる。
P265
T-10.5.10:1~4
あなたがどれほど自分自身を否定してきたか、そして、神が、ご自身の愛の中で、
どれほどあなたにそうさせたくないと思っているか、あなたは気づいていない。
だが、神があなたに干渉することはない。
なぜなら、神の子が自由でなかったなら、神がわが子を知ることはないからである。
あなたに干渉することは神ご自身を攻撃することと同じだが、神は気が狂ってはいない。
神を否定しているとき、あなたの気が狂っているのである。
幻想に価値をみることが罪なのではなくて、
「いかに、そう見ているかということに気がつきましょう。
それは、神の否定であったのだと気がつきましょう。
そして、それを少しずつやめてゆく意欲を持ちましょうね。」
ということなんですね。
「何もかも、今すぐ捨て去らないといけません!」
と言われているのではなく
言い訳せずに、やり残した感があることは何でもやりつつ、やりきってしまえば良いのだと思うのです。
もしも、中トロが食べたい食べたい食べたい。と思っているなら
試しに1週間食べ続けてみれば良いと思うのです。
なんだかんだと言い訳をして食べないでいる時は、そこに救いがあるかのように見えますが
「え?塩むすびも、中トロも、同じじゃん??」
ということがわかります。(まだ自分を騙し続けていたい気満々の時期はわからないかも知れませんが^^;)
もし、一生遊んで暮らせるほどの大金を手にしても、やりたい放題に遊び尽くしてみると
数ヶ月~数年経てばわかるかも知れません。
(まだ自分を騙し続けていたい気満々の時期はわからないかも知れませんが^^;)
「え?大金持ちも、ホームレスも、同じじゃん??」
「幻想は、ほんとに序列の差がなくて一律なんだ!!そして無なんだ!!」
それをわかりたくない。
けど、それを知りたい!
という両面感情が、私たちの中にはあります。
両面感情も、あらゆる葛藤も、
すべての原因は一つです。
「神を否定したことが、現実になった。」と(無意識レベルで)思っているからですね。
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