以下、2015年10月7日に書いた記事ですが、もう一歩言葉が足りませんでしたね。
「人生の、どのシーンも例外なく自分が映し出した、過去の映像(イメージ)だ。」だし、
もっと付け加えれば、
「それは既におわっていて、真に変化させることは不可能だし、それは無意味だ。それは実在しない幻想なのだから。」
ということですね。今まさに、自分が映像を生み出しているというのは、ニュアンスとしてちょっと違うんですね。
なんの意味も無い過去に作り出した映像に対して、今まさに、何らかの解釈を与えている。ということですね。
それは、おわっちゃっているんだから、もう、お家に帰ればいいわけなんですね。
本気で、仮想現実・幻想ではなにも起きていないし、本気で、世界はない。
ということなんですね~。
○ ○ ○
「人生の、どのシーンも例外なく自分が映し出している。」
↑この見方は、2011年から学んできた真実だったけれども
いわゆる、非二元、ノンデュアリティ、悟り系(?)では
そういう概念は無かったのだっけ??(無いですね^^;)
と、不思議に思った件があります。
詳細は控えますが、とある非二元のメッセンジャーさん(日本人)と
その方や周辺について色々話題になさっていた(らしい)ブログ主さん達の間で、トラブルが起きている。
というブログ記事が、わたしが使わせて頂いているブログ運営サイトの中にあったらしく
記事の題名が「非二元についてそれを体現している人。」的な題名だったので、へえ~。どなたのことかな?
と思ってクリックしてみたら、その件についてコメントわっしょい状態だったのです。
いわゆる、ネット上でのわいわいコメントだったので、
ああ。こうやって「外に問題を見たがっている、一者である私自身」を見ているのだな。
と、沢山あがってくる思考を、聖霊とともに赦していました。
そして、どうやらそのメッセンジャーさんも、ご自身のブログで詳細を記事になさっているらしいとのことだったので
ブログを拝見してみると、
「なるほどなー。」と感じるところがありました。
こちら、と、あちら、での主張は、真っ二つ。どちらの言い分も当人にとっては正当で正論なんだろうな。と、、
結局のところ、訴訟云々のお話しになっているようです。
何の因果か、そういった一連の騒動を何でかわからないけれども目にして。。
それを、「自我からの学びか、聖霊からの学びか、」「破壊するための赦しか、救済のための赦しか、、」
(9/26、10/1講義参照)
いずれかから学び、いずれかの方法で赦すことになっていたようです。
徹底的に救済のための赦しで、赦してゆこうと思います。
この訴訟云々の彼らは、一者の「私」なんだ。というところから。
そして、特別性を強調する意味ではなくて、ほんとにコース(奇跡講座・奇跡のコース)ってすごいな。。。
ということを、また実感したわけです。
「こりゃ、すげーな。」って。。真の赦しって、救済のための赦しって、すごいですね!!!
もしも、真にコースを実践していたら、この訴訟云々おっしゃっている彼らも、
「今、赦しの大チャンスの渦中にいる。」ということを、間もなく思い出すはずです。
非二元だと(誰もがそうとは思いませんが、今回の件に関しては)
「訴訟云々をやり取りしようとしている個の私は存在していないし
本当の私は、これにより何ら影響されていない。
けれども、一応 形のレベル(幻想)では、誹謗中傷は許せないから、やることはやってゆきます。」
純粋意識の私(コースから見ると分離のスタートの、決断の主体、分裂した心)は、
傷つかない。として、あるがまま。
純粋意識が何らかの理由で投影した結果のレベル(形のレベル)で、対応対処する。
だと、やはり根本的解決にはならないんですね。
どんなに、非二元の悟り体験をしていても、体感していても、
やはり同じような「投影しては解決する。」のループを繰り返してゆく「システム」の中なんですね。
瞑想などで、平安は保てるかも知れませんが、罪悪感は温存されたままです。
(真の赦しは無理にすることではないので、その人にとっては、今はそれでも良いのだと思います)
コースからの見方、実践の仕方では
やっぱり、「この理不尽な出来ごとは、自分が自分にやっていることなんだ。」
「自作自演なんだ。自己憎悪が原因なんだ。」
ということを認めた上で、「けれども、その原因は無だったんだ。神との分離は起きていないのだから。」
という贖罪の原理から、聖霊に訂正をしてもらうことしか、、、、
やっぱりないな~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。
ない。
そこからしか、真に解放されない。目覚められないな~~~~~。
彼ら(一者である私)のことは、思い出すたびに、聖霊とともに赦しを行ってゆこうと思います!
☆まさに今、自分が、これを映し出しているんだ。の実践話し☆
.
ワンネスというのなら「神だけ(一つだけ)」でいいじゃないか、と思ってしまうのです。
ワンネスというものがイマイチよくわかりません・・m(_ _)m
初心者すぎてすみません。最近このブログを読み始めました。動画も見させて頂いています。とても勉強になります。
はじめまして、コメントありがとうございます。
神が神の子を創造した。
というのは比喩なんですね。
私たちのように、物語の世界に住んでいるような錯覚に陥っているものにとって
このような比喩でしか 真理を学ぶことができないんですね。
実は完璧な一体性しか実在していません。
それを神と神の子という比喩で表現されています。
「完璧な愛」は、悦ばずにはいられません。それは自動的なはたらきです。
神が愛で、神の子は、悦び。
それは、意図してそうなったのではなく
とても超自然的なことで、そうならざるを得なかった。
今も、それしか実在していません。
それ以外は、全てが夢ですから存在していません。夢はただ消えるのみなんですね。
完璧な愛以外が 消え去るための学びが、奇跡講座(奇跡のコース)です。
>>実は完璧な一体性しか実在していません>>
・・そうなんですね!!比喩だったんですね。とてもスッキリしました。
わざわざお答え下さりありがとうございます。
スッキリして良かったです^^
もう一つ書き忘れていましたが、、
私たち意識が、神ではなく、神の子(悦び・神の愛・被造物)なのだ。
という認識は、真に目覚めるためにはどうしても必要な概念なんですね。
そうでないと、「我は神だ!」というように、自我の思考システムが真理を横領しようとするからです。
そして意識はすんなりと、その自我との同一化を選択します。
なので、神が愛してくださっている神の子が、真の自己なんだ。
神がすべて与えてくださっているんだ。
という概念は、神の座をのっとろうとする思考システムから回避して、天国への帰還へと進んでゆくことができます。
そういうことからも、神が創造なさってくださった神の子が、本当の私なんだ。
意識としての私は幻想なんだ。
という、天国に帰還するための梯子としての概念は、とても重要なんですね☆
とても親切で、優しく、愛からの、最短距離での目覚めに導いてくれる学びが
奇跡講座(奇跡のコース・ACIM)なんですね^^
ご質問ありがとうございました☆
「私は神だ!」と傲慢な気持ちに陥ってしまいそうですよね(^_^;)
なるほどです~☆とても分かりやすくありがとうございます