南北軍事境界線(北緯38度)にある「板門店(パンムンジョム)」。今回の旅行で最も行きたかった場所です。ここは単なる観光地ではありません。前日までに「韓国観光公社」というところで申請をしなければなりません。ソウル中心にある当時では最高級であった「ロッテホテル」に公社の窓口があったので入国当日に申請しました。
その際、パスポートを提示し「生命の保障はしません」という書類にサインします。また軍事的緊張や急な会談などが入ればツアーは中止されます。8月18日分のチケットをゲットしました。
バスはソウル市内を出発しますが一部の観光施設を除いて写真撮影は禁止されていました。これは「フィリピン軍参戦記念碑」です。板門店が近づくにつれ戦車阻止用の巨大なコンクリート塊が設置されていたり、まるで路上駐車するかのように道端に装甲車が止まっていたりと緊張感が増してきます。
途中、バスは何度か検問所を通過するのですが、その際拳銃を吊った「国連軍兵士」が乗ってきて全員のパスポートを確認しました。これは当時板門店には韓国人は行けなかったことから「外国人」という確認です。当然ですが私はここでは外国人なのです。そして日本でも上海事変当時、破壊筒を抱えて鉄条網に突入し突破口を開いた「肉弾三勇士」という軍神がいますが、朝鮮戦争当時の韓国軍による軍神「肉弾十勇士」。その忠勇塔で見学休憩です。
最後のゲートを通過すれば「共同警備区域」に入ります。映画にもなりましたね。この区域だけは写真撮影が自由でしたが北朝鮮兵に手を振ったり挑発的な行動を取らないようにと注意がありました。また服装もGパンや女性のミニスカートは禁止でした。説明は英語と日本語でされます。ここは韓国でありながら韓国人はいないのですから(兵士や従業員はいます)。これは「自由の家」と呼ばれる国連軍側の施設です。良い天気でしょ。旅行中の1週間ずっと快晴でした。ちょっと暑かったですが。
そして軍事境界線を挟んで向かいには北朝鮮側の「板門閣」。中から北朝鮮の兵士がずっと双眼鏡でこちらを監視していました。
本来であれば「本会議場」に入り会議用のマイクケーブルが境界となっている軍事境界線を越えて北朝鮮側に足を踏み入れることができるのですが、この日は写真のとおり工事中で残念ながら見学することはできませんでした。建物の中央を通るコンクリートの小さな段差が軍事境界線です。警備をしているのは国連軍の黒人兵士です。
北朝鮮側にあるこの村は夜になっても明かりは灯されず、煙突からは煙も出ないことから「宣伝村」と呼ばれています。高さだけは東京タワーやエッフェル塔に匹敵するそうですが「見栄」や「はったり」で建てた安物の鉄塔がそびえます。
「帰らざる橋」です。昭和51年の今日。ここで監視の障害となっていたポプラの枝を剪定していたアメリカ兵や韓国兵、韓国人作業員が斧を持った北朝鮮兵に突如襲われ、アメリカ兵2名が殺害されるという「ポプラ事件」が発生しました。当時共同警備区域内に境界線は設定されておらず「南北」入り混じって警備していたそうです。この後、アメリカ軍は威信をかけ空母、爆撃機など陸海空全軍を動員して、この小さな1本のポプラの木を伐採したそうです。ちょうど7年後の当日、その切株がまだ残っていました。
この後、将校クラブでコーヒーを飲んだ後、ツアーは帰路につきます。
その際、パスポートを提示し「生命の保障はしません」という書類にサインします。また軍事的緊張や急な会談などが入ればツアーは中止されます。8月18日分のチケットをゲットしました。
バスはソウル市内を出発しますが一部の観光施設を除いて写真撮影は禁止されていました。これは「フィリピン軍参戦記念碑」です。板門店が近づくにつれ戦車阻止用の巨大なコンクリート塊が設置されていたり、まるで路上駐車するかのように道端に装甲車が止まっていたりと緊張感が増してきます。
途中、バスは何度か検問所を通過するのですが、その際拳銃を吊った「国連軍兵士」が乗ってきて全員のパスポートを確認しました。これは当時板門店には韓国人は行けなかったことから「外国人」という確認です。当然ですが私はここでは外国人なのです。そして日本でも上海事変当時、破壊筒を抱えて鉄条網に突入し突破口を開いた「肉弾三勇士」という軍神がいますが、朝鮮戦争当時の韓国軍による軍神「肉弾十勇士」。その忠勇塔で見学休憩です。
最後のゲートを通過すれば「共同警備区域」に入ります。映画にもなりましたね。この区域だけは写真撮影が自由でしたが北朝鮮兵に手を振ったり挑発的な行動を取らないようにと注意がありました。また服装もGパンや女性のミニスカートは禁止でした。説明は英語と日本語でされます。ここは韓国でありながら韓国人はいないのですから(兵士や従業員はいます)。これは「自由の家」と呼ばれる国連軍側の施設です。良い天気でしょ。旅行中の1週間ずっと快晴でした。ちょっと暑かったですが。
そして軍事境界線を挟んで向かいには北朝鮮側の「板門閣」。中から北朝鮮の兵士がずっと双眼鏡でこちらを監視していました。
本来であれば「本会議場」に入り会議用のマイクケーブルが境界となっている軍事境界線を越えて北朝鮮側に足を踏み入れることができるのですが、この日は写真のとおり工事中で残念ながら見学することはできませんでした。建物の中央を通るコンクリートの小さな段差が軍事境界線です。警備をしているのは国連軍の黒人兵士です。
北朝鮮側にあるこの村は夜になっても明かりは灯されず、煙突からは煙も出ないことから「宣伝村」と呼ばれています。高さだけは東京タワーやエッフェル塔に匹敵するそうですが「見栄」や「はったり」で建てた安物の鉄塔がそびえます。
「帰らざる橋」です。昭和51年の今日。ここで監視の障害となっていたポプラの枝を剪定していたアメリカ兵や韓国兵、韓国人作業員が斧を持った北朝鮮兵に突如襲われ、アメリカ兵2名が殺害されるという「ポプラ事件」が発生しました。当時共同警備区域内に境界線は設定されておらず「南北」入り混じって警備していたそうです。この後、アメリカ軍は威信をかけ空母、爆撃機など陸海空全軍を動員して、この小さな1本のポプラの木を伐採したそうです。ちょうど7年後の当日、その切株がまだ残っていました。
この後、将校クラブでコーヒーを飲んだ後、ツアーは帰路につきます。
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