「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

大阪24区を歩く~えべっさんと通天閣「浪速区」

2013-09-20 21:31:35 | 日記
訪問日:平成26年1月11日(土)
出 発:地下鉄「桜川駅」
到 着:地下鉄「天王寺駅」

 大正14年の区編制により「旧南区」から分区して誕生。区名は、此花区同様、百済から渡来した王仁が詠んだ「難波津の歌」
  難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は 春べと 咲くやこの花
から命名された。人口約6万3千人。面積約4.4k㎡は、日本の行政区で最狭だそうだ。
 昔は、大坂へ送る野菜畑が開けていた農村地帯だったが、明治に入って鉄道が通り都市化された。南海難波駅周辺は「ミナミ」の繁華街の一角である。また、区内には、東京・秋葉原同様、電気店が並ぶ「でんでんタウン」や毎年1月「商売繁盛」を願い多くの人が集まる「えべっさん」で有名な「今宮戎神社」がある。そして、何よりも大阪のシンボル「通天閣」がそびえる町でもある。
 平成26年の第一歩。「十日戎」最終日の「残り福」で賑わう「えべっさん」に向かって浪速区を歩く。
 

 午前10時15分、地下鉄桜川駅を出発。4番出口へと向かう。
 

 地上に出たところは「千日前通」。阪神高速道路の高架に沿って西へ進む。すぐに「汐見橋交差点」に出るが、その角(東南角)にちょっと古めかしいビルが現れる。「新桜川ビル」という昭和40年建築、事務所兼住宅の地上4階建てビルだ。


 目の前の「汐見橋交差点」で、阪神高速道路が大きなカーブを描いて90度曲がる。それに合わせてビルも弧を描いている。円筒形のマルビルなのか?
 

 裏に回ってみると…。ちょうどバームクーヘンを2つに切ったような「馬蹄」型のビルだった。駐輪場との間はフェンスで区切られていたので、敷地も「馬蹄」型なのだろうか。
 

 「汐見橋交差点」を渡るとすぐ左に南海汐見橋(高野)線の汐見橋駅が。
 

 明治33年9月に開業した汐見橋線は、当時、高野山への出発点だったが、南海電車のターミナルが難波に移り、今はひっそりとしている。そして改札口上の壁には、昭和30年当時の観光案内図が掲げられている。この駅は、以前も訪れた。(野里町歩紀~摂河泉をゆく「浜寺から『織物の町』『小栗街道』を経て『信太の森へ』」参照)
 

 駅前をさらに千日前通に沿って西へ歩く。300mほどで「日吉橋交差点」の信号で千日前通を北に渡り、さらに西へ歩く。するとすぐ目の前に「大正橋」が現れるが、その手前の歩道上に何やら石碑が。
 

 「大地震両川口津浪記」と呼ばれる石碑だ。「安政の大地震」と呼ばれる地震が、安政元(1854)年6月、関西地方を襲い多くの死傷者が出た。その年の11月、2度目の地震が襲い、火災や倒壊などの被害を恐れた人々は船に乗り川へと逃れたが、そこを津波が襲い、さらに多くの人々が亡くなった。正面と左側面には、慰霊文と建立年(安政2年7月)や施主などが刻まれている。
 

 しかし、この石碑は単なる「慰霊碑」ではない。実は、その約150年前の宝永4(1707)年にも大地震が襲い、その時も同様に多くの人々が犠牲になっていた。そして、安政の大地震では、その教訓が活かされなかったことから、背面と右側面には、当時の状況がぎっしりと刻まれ、後世の人々に津波の恐ろしさを伝えているのだ。そして、年1回、刻字に墨を入れるように記されている。
 

 石碑のすぐ裏は、南北に流れる「木津川」と東西に流れる「道頓堀川」が十字に交わる。道頓堀川は、この十字路から「尻無川」と名を変え、ここが浪速区と大正区・西区の区境になっている(川の向こうには、大阪ドーム)。
 

 東日本大震災で津波の恐ろしさを思い知らされた。そして、近々、東南海・四国沖地震が関西地方を襲うと言われている。当時の教訓を無駄にしてはならない。
 

 ここから先は、大正区だ。千日前通を横切りたいのだが、中央分離帯があるので先ほどの日吉橋交差点まで戻り信号で渡る。ガソリンスタンドの間を南に進むと300mほどで「桜川公園」という都市公園に出るので左折する。
 

 この辺りには、古い家屋が所々残っている。さらに東へ進む。
 

 先ほどの南海汐見橋線の踏切を渡り、阪神高速道路の高架をくぐって「あみだ池筋」を越えれば「稲荷」という町に入る。
 

 そして、すぐ右には町名の由来となった「赤手拭(あかてぬぐい)稲荷神社」の鳥居が。
 

 慶長年間、ここにあった老松の根元に祠を立て、赤い手拭いを献じたことから、こう呼ばれるようになったそうだ。今日一日の安全を祈願する。
 

 参拝を終え、さらに東へ。ビルの谷間には、古い家が。
 

 「なにわ筋」に出るので、左に見える信号を渡る。以前、ネットで海外からの観光客が日本に来て驚くことのひとつに「静かさ」があると書かれていた。おそらく厳しい公害規制で自動車を初め工事現場や工場の騒音が抑えられていることと、車がやたらクラクションを鳴らさないからだろう。土曜日ということもあるが、日本第二の都市とは思えないほど町は静かだ。
 

 なにわ筋を渡り東へ。突き当たりに出るので左に曲がる。角には古いビル兼住宅。
 

 しかし、高層ビルやマンションの建設も進んでいる。
 

 「湊町西交差点」で阪神高速道路の高架下で千日前通を再度、南から北に渡ると右に「湊町リバープレイス」。平成14年7月、旧国鉄湊町駅貨物ヤード跡に建設され、阪神高速道路パーキングエリアとライブハウスやレストランなどが入る。
 

 道の突き当たりは「道頓堀川」。ユリカモメが羽を休めている。
 

 川の向こうは「西区」。「浮庭橋」という人道橋で結ばれている。
 

 川辺には「なにわ探検クルーズ」という観光船の船着場がある。
  

 私が幼い頃、この川面には収集車で集められた家庭ゴミを満載した船が何隻も繋がれており悪臭を放っていたが、今は公園として整備され悪臭もない。先ほどの「静けさ」とともに、ここ4~50年で、日本は確実に先進国として発展したと思う。
 

 すぐ東側は「中央区」であり、立体デッキからは「ミナミ」のビル街が見える。
 

 湊町リバープレイスのすぐ東側の道は「四つ橋筋」。交差点を渡り南へ進む。途中、地下鉄「なんば駅」。実は、地下鉄四つ橋線とJR大和路線、南海本線の「なんば(難波)駅」は、中央区ではなく浪速区にあり、ここは大阪の繁華街「ミナミ」の一角なのだ。
 

 四つ橋筋の西側歩道を南に歩き「難波元町小学校」を過ぎれば、右側に「鉄眼寺」というお寺が現れる。
 

 正式名は「黄檗宗慈雲山瑞龍禅寺」といい、寛文10(1670)年、高僧「鉄眼」が開き、御本尊は薬師如来。「龍」「人魚」「河童」のミイラを所蔵すると言うが非公開らしい。
 

 本堂階段の真ん中には「布袋様」がドーンと。
 

 黄檗宗寺院らしい雰囲気が。
 

 鉄眼寺を出て次の「元町2交差点」へ。角には「元町會舘」という古いビルがあった。同趣の輩だろうか熱心に写真を撮っている男性がいたので私も1枚。
 

 入口が開放されていたので、中に入って階段も撮らせていただいた。
 

 元町2交差点の歩道橋上からビルの合間に「大阪府立体育会館」。平成24年4月から「BODYMAKERコロシアム」と呼ばれるようになったそうだ。毎年3月の「大相撲大阪場所」はここで開かれ、その時は「大阪府立体育会館」と呼ばれるそうだ。
 

 元町2交差点からは、一本西側の路地を進む。150mほどで右に「難波八阪神社」の鳥居が現れるので境内へ。そこには何と大きな「獅子」の頭が。これは「獅子舞台」と呼ばれ毎年夏に子どもたちが獅子舞を舞うという。
 

 そして右を見ると拝殿が。創建は不詳らしいが、平安年間にはすでに「牛頭天王」を祀っていたとか。牛頭天王は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)の本地。今は「素戔嗚尊」と妻「奇稲田姫(クシナダヒメ)」を祀る。
 

 そして、後ろを振り返ると鳥居が。その横には手水舎も。そうか、こちらが正面だったのか。失礼しました。
 

 さて時間は「正午」。お正月は、ずっと魚を食べていたので、しばらく供養のつもりで魚は断っている。今日はトンカツかカレーでも食べよう。そして神社のすぐ近くには何と「元祖とんかつカレー、カツヤ」。
 

 もちろん元祖とんかつカレーをいただくが、A・B・Cでは大きな値段の差が。ネットでは「Bがお勧め」と言うことだったので「B」を注文することに。
 

 店内は、昔からの「洋食屋さん」という感じ。左端には、敬礼のポーズをした婦警さんのカレンダーが。この手のカレンダーがあるところは、地元の警察と良い関係なんだ。
 

 とんかつカレーB(上ロース肉)1400円。野菜や果物が十分にとろけた甘いルーだった。ご飯が少ないかなと思ったが、とんかつが大きかったのでお腹いっぱいになった。
 

 食事を終え、次の目標は「鴎町公園」。途中、古いマンション。
 

 何でもない町中を歩くが、結構、古い建物が残るので退屈しない。
 

 

 海外からの観光客が驚くことのもうひとつに「路地に入っても道がきれい」ということがあるらしい。日本でもマナーが悪いと言われる大阪だが、道路にはゴミひとつ落ちていない。誇っても良いだろう。元町2丁目から3丁目へと進む。
 

 このような方々のおかげだろう。
 

 「カツヤ」から10分ほどで「敷津西」という町に入る。そしてすぐに「鴎町公園」という小さな都市公園に。
 

 大正・昭和の民俗・国文学者そして詩人としても有名な「折口信夫(おりぐちしのぶ)」は、明治20年2月11日、ここ敷津村で生まれたという。公園内には「折口信夫生誕の地」碑が立つ。
 

 また、公園の端には「勘助橋跡」碑。木津勘助という人については後で述べるが、付近にはその人物に因んで名付けられた橋があったのだろう。
 

 四つ橋筋は、元町2交差点で「国道25号線」と交わる。鴎町公園から国道25号線に出て120mほど南に歩くと路上には屋台が。そして屋台のすぐ前に「大國主神社」の鳥居。
 

 大国主は「大黒天」と習合。そして七福神の「大黒様」と「恵比寿様」は一組で信仰されることが多いことから「十日戎」の三が日、ここでも「大国まつり」が行われていた。
 

 巫女さんたちが「縁起物」を売っていた。
 

 そして正面の「大国社」へ進むと右に拝殿が。
 

 そして振り向くと、またしても鳥居と手水舎が。ここは社伝によると、神功皇后が三韓出兵の帰りに立ち寄り、3本の松の木に素戔嗚尊を祀ったことから「敷津松之宮」と呼ばれるようになったとか。こちらが神社の正面のようだ。またまた失礼しました。
 

 そして境内には「木津勘助之像」。先ほど「鴎町公園」にもあった「勘助橋跡」碑。木津勘助とは、天正15(1586)年に木津村で生まれ、木津川の開削などを行った土木・水利事業家である。飢饉の際、捕まるのを覚悟で幕府の米蔵を破って貧民たちに施しをするなど民衆の味方として崇められている。
 

 参拝後、神社前の信号で国道25号線を渡る。すぐ左に「大阪中華学校」。中華民国(台湾)系の民族学校で華僑子弟らを教育するため開設され幼稚園から中学部まであるが、日本高校への進学のため文部科学省検定教科書での授業も行っている。
 

 この辺りにも古い住宅が残る。
 

 その向かいには「大阪木津卸売市場」。以前、「福島区編」で訪れた「大阪中央卸売市場本場」に比べると規模は小さいが、古くは宝永年間(1710年頃)から開かれていた「市」が原点と言われ、大正・昭和と無許可により闇市的に運営されていたが、住民らの願いにより昭和6年に認可され、昭和13年、現在地に移転したといわれる。
 

 時間的に生鮮品の販売は終わり乾物や練物系の店が開いていた。
 

 

 しかし、場内には一般向けの食料品市場があり、いつでも新鮮なものが購入できる。
 

 日帰り湯もあるようだ。
 

 もちろんグルメコーナーもあり、うどん専門店前には行列ができていた。
 

 市場を通り抜け道路を左(東)に進む。阪神高速道路の高架をくぐり南海本線のガードをくぐったあたりから人通りが多くなってきた。「えべっさん」への参拝客だ。人混みをかき分け「広田神社」にお参りする。天照大神の荒魂「撞賢木厳之御魂天疎向津姫命(つきさかきいつのみたまさかるむかつひめのみこと)」を祭神とするが創建は不詳である。「戎神社」とは対の関係にあり「西宮戎神社」にも同じ位置関係で広田神社があるという。
 

 この人並みに沿って「えべっさん」に向かう。
 

 熊手など「縁起物」と呼ばれる飾り物が雰囲気を盛り上げている。
 

 屋台もたくさん出ている。
 

 境内は一方通行になっており、ガードマンの誘導で境内入口へ。今日は、七福神のうち「布袋さん(鉄眼寺)」「大黒さん(大國主神社)」「えべっさん(今宮戎神社)」の三福神を詣ったことになる。
 

 今日は十日戎の最終日(残り福)であり時間的にも少し早いが、土曜日ということで結構な人出だ。毎年3日間で100万人を越す人が参拝すると言われる。
 

 一般公募される福むすめが毎年話題になる。最近では留学生だろうか「青い目」の福むすめも見られる。
 

 本殿前に投げ込まれたお賽銭(札)。毎年、銀行員が出張してきて金額を勘定する姿が報道される。今年はいくらだろうか。
 

 「アベノミクス」とはいえ、まだまだ景気は回復しない。参拝客の中には、まだまだ経済状態が思わしくない人も多いだろう。しかし、この雰囲気は何だろう。境内に渦巻く「商売繁盛で笹持って来い。」のかけ声。みんなが熱狂、昂揚する。宗教の力、信仰心というよりも、どんな困難があっても乗り越える日本人の底力だろうか。
 

 境内を通り抜け南海本線の高架沿いに南へ。先ほどの喧騒が嘘のように静かな雰囲気になる。300mほどで左側に何やら廃墟のような空間が。
 

 「大阪市立馬渕生活館」。戦後、この辺りは「スラム街」化していたらしい。そして昭和32年の大火により焼け出された人や元々の無住居者らの住まいとして市が設置。住宅ではなく一時的な収容施設であったため都市整備局ではなく健康福祉局が管轄した。一時は、1000人を越える入居者がいたらしいが平成22年3月閉鎖。今は金網に囲まれている。
 

 馬渕生活館を左折。途中、敷石の路地などを見ながら東へ。
 

 阪堺電車の軌道手前で左折し、国道25号線に出たところの右手に大阪市で唯一のチンチン電車である阪堺電車の「恵美須町」駅(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「陰陽師ゆかりの地『阿倍野』、コラム『チンチン電車』『筋を通す』」参照)。
 

 阪堺電車恵美須町駅から堺筋を北に。阪神高速道路の高架をくぐったところから東京・秋葉原同様、電器店が並ぶ「でんでんタウン」を歩く。
 

 パソコンやデジカメなどが並ぶ。ただ、最近ではゲームソフトやコミック本・フィギュアなどの店が増えてきたようだ。
 

 「日本橋4交差点」を過ぎた辺りから一本西の路地に入ると「五階百貨店」。これは、5階建ての百貨店というわけではなく、昔、5階建ての建物が出来た周辺に多くの店が集まってできた地域を指すらしい。
 

 この辺りは、電気工事の工具や部品などを扱う店が多い。
 

 また、家電量販店ではなく個人経営の店が多いようだ。さすが、こんな路地でもゴミは落ちていない。
 

 間もなく右手に重厚な石造りの建物が見えてくる。「高島屋東別館」。
 

 昭和12年、松坂屋支店として建てられた地上7階地下1階のレトロビルだ。
 

 3階に「高島屋史料館」というのがあるが1階は出入り自由で、警備員さんに声をかければ写真撮影もできる。大理石の立派な館内は、コシノ三姉妹の母である小篠綾子さんの生涯を描いたNHK連続ドラマ「カーネーション」のロケでも使用された。
 

 高島屋東別館から北は中央区になる。区境の道を東へ。この辺りは、道の両側に「履物屋」さんが並ぶ。
 

 

 そして250mほど進むと阪神高速道路高架手前に「大阪履物会館」。左の看板に書かれているとおり、かつてこの辺りに「高津御蔵」という米蔵群があり、その後、移転。跡地に銅銭の鋳造所などが出来たが、昭和に入って跡地に70軒ほどの履物屋が集団移転してきたらしい。
 

 履物会館の裏には「羽呉(はご)神社」。履物の神様かと思ったが、天王寺区「愛染坂」横にある大江神社の境外末社らしい。履物屋が移転して来る前からあったのだろう。お参りしようと思ったが、門扉が閉ざされていたので、そのまま阪神高速をくぐる。
 

 突き当たりは「松屋町筋」。道路の東側には寺院が並ぶ。しかし、松屋町筋が浪速区と天王寺区の区境になっており、向かいに見える寺町は天王寺区になる。小高い丘は「夕陽丘」と呼ばれた上町台地だ。遠くに今年3月オープン予定(一部先行オープン)の「あべのハルカス」が見える。
 

 松屋町筋を南に歩く。中之島の天神橋から始まる南北4kmほどの大路で、最南端の250mほどには両側に中古バイク屋さんが並ぶ。
 

 東京の上野にも同じように中古バイク屋さんが集まった地域があるとか。
 

 

 「DAXホンダ」。あったなこんなバイクが。
 

 「公園北口交差点」に突き当たる。「公園」とは天王寺公園のこと。高い柵は「天王寺動物園」。この先は天王寺区になるので右に折れる。すぐに「合邦辻閻魔堂」。聖徳太子が開基したと伝わるが大伽藍は焼失し、明治中頃に「融通念仏宗西方寺」の辻堂として再建された。
 

 西に進む。このあたりは上町台地のはずれになるので、結構、坂道が見られる。
 

 阪神高速をくぐれば天王寺区との境界から離れるので信号を渡って道路南側の歩道へ。
 

 緩やかな下り坂を真っ直ぐ西に進むと、先ほど訪ねた「阪堺電車恵美須町駅」があった「恵美須交差点」に出るので南東角を斜めに左折する。目の前には「通天閣」。通天閣に向かって進む「通天閣本通商店街」は、全蓋ではないが道路の両端に並ぶ商店の上にはアーケードが。この商店街は、どちらかと言えば観光客相手の飲食店などが多い。
 

 そしてすぐにアーケード街への入口が見えてくので入ろう。「新世界市場」だ。
 

 この商店街は、地元の人たちの生活を支える商店街という感じだ。
 

 そして商店街を抜け左に曲がれば自然と「通天閣」の真下に出る。大阪のシンボル「通天閣」。明治36年に開催された「第5回国内勧業博覧会」の跡地に造られた西洋式の大遊園地「ルナパーク」の開園と同時に明治47年に建てられ。しかし、その後、昭和18年、火災に遭い、戦時中の鉄材供出のため解体されたが、昭和31年、高さ103mの二代目「通天閣」が誕生。そして、平成19年、国の登録有形文化財に登録された。
 

 通天閣の真下には将棋で有名な阪田三吉に因んで「王将碑」が建つ。ただ、阪田三吉と通天閣(新世界)の関係はよくわからない。
 

 通天閣の真ん前には行列の串かつ屋。右の鉄柱は、通天閣の4本ある足のうちのひとつ。
 

 通天閣に登ろう思い中へ入る。展望台への入口は地下に。そこでは大阪に本社がある会社なども手伝い「コテコテ大阪」を演出していた。
 

 

 しかし、展望台へは待ち時間「50分」。下りも同じキャパのエレベーターで下りるのだから、それなりに時間がかかるだろう。展望台はあきらめる。
 

 地上に戻って新世界を歩く。「新世界」とは、ルナパークの跡地に出来た歓楽街。
 

 ただ「キタ」や「ミナミ」に比べてやや客筋が違う。はっきり言う。最近でこそ一般観光客を相手に町作りに努めているが、元々は隣接する「あいりん地区」などの日雇い労働者や路上生活者らを相手にして発達した歓楽街だ。しかし、それが現実であり新世界の歴史でもある。かつての娯楽の殿堂「映画館」「大衆劇場」。確かに過去を現代に伝えている。そして、経営を成り立たせるため、いずれも「ポルノ映画館」を併設している。これが現実だ。
 

 

 スマートボール場。私自身、スマートボールは、祭りの夜店でしかやったことがないが、ここでは娯楽として息づいてる。
  

 「コテコテの大阪」の中でも、最近は若者や女性、地方や海外からの観光客招致を目指して頑張っている。
 

 

 新世界では「ビリケンさん」が目につく。
 

 「ビリケン」とは、アメリカの女性芸術家フローレンスが制作したキャラクター。「幸運の神」として親しまれた。
 

 そしてルナパークの「ビリケン堂」に展示されて以来、新世界(通天閣)の「守り神」として親しまれている。
 

 あちこちで「ビリケンさん」の姿を目にする。ビリケンさんは、それぞれ微妙に顔の表情が異なる。
 

 「ビリケン神社」まである。神社本庁の神社ではないだろうが神道形式で祀られている。どんなキャラクターでもパロディーでも受け入れることができる神社神道とは、おおらかな宗教だなぁ。
 

 新世界の南に、平成9年7月、ジェットコースターやレストランなどを備えた都市型娯楽施設「フェスティバルゲート」がオープンした。
しかし、経営難から10年を経ず、平成16年、閉鎖された。今はフェスティバルゲートと同時に開設された「スパワールド」という健康ランドが残る。単純泉質の天然温泉だ。 
 

 そして、スパワールドの隣には「ジャンジャン町」というアーケード街が。「ジャンジャン」とは、街を流した三味線の音から名付けられたらしい。林芙美子の小説「めし」で紹介されて以来、「ジャンジャン横丁」として親しまれている。
 

 商店街の入口には行列のできる串かつ屋さん。
 

 阪田三吉に因んで将棋クラブも。
 

 ここにも行列の串かつ屋。しかし、いつから新世界は、串かつで有名になったのだろう。元々、一般観光客が足を踏み入れる場所ではなかったが、私の記憶では「新世界」といえば先ほどの写真にもあったように「づぼらや」。安くて「てっちり(ふぐちり)」が食べられるところというイメージだった。「二度づけお断り」の串かつは、新世界よりウメダの阪神百貨店地下前の立ち飲みの方が有名だったと思うのだが。
 

 ネットによると「新世界串かつ振興会」という組織も平成17年に結成されたとか。そう言えば、どこの串かつ屋さんも店が新しい。最近になって町おこしで串かつが有名になったのだろう。まぁ町が活気づくのだから良いことだ。
 

 そんなことを考えながら歩いていると商店街の出口に。ここにもビリケンさん。
 

 小便臭いガードをくぐれば地下鉄「動物園前駅」だ。ただ、ガードの向こうは一般観光客が立ち入る場所ではない。
 

 左に折れ、阪神高速をくぐれば天王寺区。天王寺動物園南側の柵沿いに10分ほど歩けば地下街の入口。そこを入れば本日のゴール地下鉄「天王寺駅」。本日の歩紀「23420歩」(20.14km)。
 
 

 
 

 
 
 

 

 

 

  



  

 
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