みなさんは両国というと何を思い浮かべるでしょうか。
相撲、国技館、江戸東京博物館、両国橋、両国駅、ちゃんこ鍋などさまざまだと思います。
たぶん、頭の中に思い浮かぶ両国は隅田川の東側、墨田区両国のことだと思います。
この地名が動いたことを知る人は少ないのじゃないでしょうか。
両国の地名は、江戸時代の万治2年(1659)に架橋された両国橋が名前の起こりです。
明暦3年(1657)に起こった明暦の大火(振袖火事)では、逃げ遅れた人々が浅草御門(現在の浅草橋)に殺到し数万人規模で犠牲になりました。
そこで千住大橋より下流には防衛上ひとつもなかった橋を隅田川に架けることになったのです。
余談ですが山本周五郎作の「柳橋物語」ではそのあたりの事情が描かれています。
この小説で架けられるのは、浅草御門の下流の神田川に架けられる柳橋ですが。
当時、武蔵国と下総国の国境は現在の隅田川だったので、両国をつなぐという意味から両国橋という名前がついたようです。
しかしはじめは「大橋」という名前で呼ばれていたようです、当時隅田川も大川と呼ばれていたようです。
その後に両国橋の下流に架けられた橋は「新大橋」(1693年架橋)、「大橋」の名称が「両国橋」に変わった今も新しい橋は「新大橋」の名前で呼ばれています。
以後いくつもの橋が隅田川に架けられて、「大橋」から「両国橋」に変わっていったようです。
両国橋の架橋によって、新開地だった本所地区は目覚しい発展を遂げて江戸市中に組み込まれていきます。
もともと低湿地であった本所地区には竪川や横川などの水路が作られ、治水が試みられ、人々の日常生活が営まれるようになります。
貞享3年(1689)、幕府は武蔵国と下総国の国境を東に移動させ、今の江戸川を国境に定めます。
そこで「両国橋」の名前は実態にそぐわなくなります。
寛延元年(1748)には江戸処払いの刑の区域内に本所・深川が組み込まれ、まさしく江戸市内となって行きます。
江戸時代には明暦の大火の犠牲者を祀った本所回向院で勧進相撲興行が行われ、今の両国のイメージの元となる相撲の本場が確立されていきます。
江戸時代の江戸一番の繁華街は両国広小路といわれています。
両国広小路は江戸の防火対策のひとつとして、両国橋の西側に設けられた火除け地です。
現在の江戸通りと靖国通りの交差点から両国橋のたもとあたりまでと思っていただいていいでしょう。
そこに見世物小屋や屋台などができて繁華街となっていきました。
歌舞伎などの場面にも両国の場面が出てきますが、猥雑な見世物などで繁盛していたようです。
その当時の両国広小路のジオラマが江戸東京博物館にあります。
当時、本所側は向う両国と呼ばれ、江戸市中には組み込まれながらも、まだまだ西側の繁華な様子とは差があったようです。
そして、時代は明治に移っていきます。
明治37年(1904)4月に本所・佐倉間をつなぐ総武鉄道が開通します。
その始発駅として東の本所側に「両国橋」駅が開業します。
わざわざ「両国橋」とつけたのは、両国という地名がまだ西側の地名だったからでしょう。
有名な地名を駅名につけたいのは、今も変わりません。
新幹線の小郡駅が新山口駅に変わったことは記憶に新しいところです。
両国と駅名をつけたくてもつけられなかった鉄道会社の人の気持ちがわかるような気がします。
その後、東武鉄道でも終着駅だった現・業平橋駅(本所区)を浅草駅と称していた時代もあります。
有名地名に対する憧れはいかばかりのものか。
「両国橋」駅はその後、東武鉄道が亀戸から乗り入れて終点になっていた時期もあり、大いに栄えました。
明治42年(1909)6月、本所回向院境内に日本初のドーム型屋根をもつ大相撲常設館、両国国技館が完成します。
国技館の名前を本所国技館ではなく両国国技館としたのは、「両国橋」駅の影響があったのではないでしょうか。
明治38年(1905)に作られた「電車唱歌」の一節に
45番 はや両国の停留所 橋を渡れば本所区
左に折れて総武線 高架鉄道十文字
この歌詞を見てもわかるように、「両国」橋の手前、橋を渡ると「本所」、そして路面電車は今の清澄通りを北上して、総武線の高架橋をくぐっていきます。
昭和6年に本所区の尾上町、横網町、元町、藤代町、松坂町、相生町、小泉町、亀沢町などの各一部を合わせ「東両国」という町名が誕生します。
東側でははじめての「両国」という地名です。
同じ年に「両国橋」駅が「両国」駅と改称、翌年、お茶の水駅まで総武線が延伸されるのを控えてのことです。
この改称には、両国国技館の存在や東両国の地名の誕生も大きく影響していると思われます。
また、新たに延伸された路線が、神田川の北側を通るために、実際の両国を通過しないことも影響したのでしょう。
川の西側にできた駅は、そばの橋の名前を頂戴して「浅草橋」駅となってしまいました。
昭和7年(1932)、橋の西側の新柳橋、元柳橋、吉川町、米沢町、薬研堀町、若松町が合併して「日本橋両国」という町名が誕生します。
この時期から、昭和40年代まで、二つの両国が存在していました。
その間にも、路面電車の両国停留所が浅草橋と改称されたり、西側の衰退が目立ちます。
昭和42年(1967)、墨田区東両国は「墨田区両国」と改称。
昭和46年(1971)、中央区日本橋両国は「中央区東日本橋」と改称。
この時点で完全に両国は川を越えて東側の単独の地名となってしまいました。
いまでも、西側には両国郵便局や両国広小路の碑が存在して、往時を偲ぶことができます。
しかし、両国橋のたもとが「東日本橋」とは皮肉な話じゃありませんか。
そう、有名な地名は拡散していくのです。
このように調べてくると、地名にも歴史ありですね。
(画像は両国橋東詰にある獣肉の「ももんじや」。江戸時代からあります。)
相撲、国技館、江戸東京博物館、両国橋、両国駅、ちゃんこ鍋などさまざまだと思います。
たぶん、頭の中に思い浮かぶ両国は隅田川の東側、墨田区両国のことだと思います。
この地名が動いたことを知る人は少ないのじゃないでしょうか。
両国の地名は、江戸時代の万治2年(1659)に架橋された両国橋が名前の起こりです。
明暦3年(1657)に起こった明暦の大火(振袖火事)では、逃げ遅れた人々が浅草御門(現在の浅草橋)に殺到し数万人規模で犠牲になりました。
そこで千住大橋より下流には防衛上ひとつもなかった橋を隅田川に架けることになったのです。
余談ですが山本周五郎作の「柳橋物語」ではそのあたりの事情が描かれています。
この小説で架けられるのは、浅草御門の下流の神田川に架けられる柳橋ですが。
当時、武蔵国と下総国の国境は現在の隅田川だったので、両国をつなぐという意味から両国橋という名前がついたようです。
しかしはじめは「大橋」という名前で呼ばれていたようです、当時隅田川も大川と呼ばれていたようです。
その後に両国橋の下流に架けられた橋は「新大橋」(1693年架橋)、「大橋」の名称が「両国橋」に変わった今も新しい橋は「新大橋」の名前で呼ばれています。
以後いくつもの橋が隅田川に架けられて、「大橋」から「両国橋」に変わっていったようです。
両国橋の架橋によって、新開地だった本所地区は目覚しい発展を遂げて江戸市中に組み込まれていきます。
もともと低湿地であった本所地区には竪川や横川などの水路が作られ、治水が試みられ、人々の日常生活が営まれるようになります。
貞享3年(1689)、幕府は武蔵国と下総国の国境を東に移動させ、今の江戸川を国境に定めます。
そこで「両国橋」の名前は実態にそぐわなくなります。
寛延元年(1748)には江戸処払いの刑の区域内に本所・深川が組み込まれ、まさしく江戸市内となって行きます。
江戸時代には明暦の大火の犠牲者を祀った本所回向院で勧進相撲興行が行われ、今の両国のイメージの元となる相撲の本場が確立されていきます。
江戸時代の江戸一番の繁華街は両国広小路といわれています。
両国広小路は江戸の防火対策のひとつとして、両国橋の西側に設けられた火除け地です。
現在の江戸通りと靖国通りの交差点から両国橋のたもとあたりまでと思っていただいていいでしょう。
そこに見世物小屋や屋台などができて繁華街となっていきました。
歌舞伎などの場面にも両国の場面が出てきますが、猥雑な見世物などで繁盛していたようです。
その当時の両国広小路のジオラマが江戸東京博物館にあります。
当時、本所側は向う両国と呼ばれ、江戸市中には組み込まれながらも、まだまだ西側の繁華な様子とは差があったようです。
そして、時代は明治に移っていきます。
明治37年(1904)4月に本所・佐倉間をつなぐ総武鉄道が開通します。
その始発駅として東の本所側に「両国橋」駅が開業します。
わざわざ「両国橋」とつけたのは、両国という地名がまだ西側の地名だったからでしょう。
有名な地名を駅名につけたいのは、今も変わりません。
新幹線の小郡駅が新山口駅に変わったことは記憶に新しいところです。
両国と駅名をつけたくてもつけられなかった鉄道会社の人の気持ちがわかるような気がします。
その後、東武鉄道でも終着駅だった現・業平橋駅(本所区)を浅草駅と称していた時代もあります。
有名地名に対する憧れはいかばかりのものか。
「両国橋」駅はその後、東武鉄道が亀戸から乗り入れて終点になっていた時期もあり、大いに栄えました。
明治42年(1909)6月、本所回向院境内に日本初のドーム型屋根をもつ大相撲常設館、両国国技館が完成します。
国技館の名前を本所国技館ではなく両国国技館としたのは、「両国橋」駅の影響があったのではないでしょうか。
明治38年(1905)に作られた「電車唱歌」の一節に
45番 はや両国の停留所 橋を渡れば本所区
左に折れて総武線 高架鉄道十文字
この歌詞を見てもわかるように、「両国」橋の手前、橋を渡ると「本所」、そして路面電車は今の清澄通りを北上して、総武線の高架橋をくぐっていきます。
昭和6年に本所区の尾上町、横網町、元町、藤代町、松坂町、相生町、小泉町、亀沢町などの各一部を合わせ「東両国」という町名が誕生します。
東側でははじめての「両国」という地名です。
同じ年に「両国橋」駅が「両国」駅と改称、翌年、お茶の水駅まで総武線が延伸されるのを控えてのことです。
この改称には、両国国技館の存在や東両国の地名の誕生も大きく影響していると思われます。
また、新たに延伸された路線が、神田川の北側を通るために、実際の両国を通過しないことも影響したのでしょう。
川の西側にできた駅は、そばの橋の名前を頂戴して「浅草橋」駅となってしまいました。
昭和7年(1932)、橋の西側の新柳橋、元柳橋、吉川町、米沢町、薬研堀町、若松町が合併して「日本橋両国」という町名が誕生します。
この時期から、昭和40年代まで、二つの両国が存在していました。
その間にも、路面電車の両国停留所が浅草橋と改称されたり、西側の衰退が目立ちます。
昭和42年(1967)、墨田区東両国は「墨田区両国」と改称。
昭和46年(1971)、中央区日本橋両国は「中央区東日本橋」と改称。
この時点で完全に両国は川を越えて東側の単独の地名となってしまいました。
いまでも、西側には両国郵便局や両国広小路の碑が存在して、往時を偲ぶことができます。
しかし、両国橋のたもとが「東日本橋」とは皮肉な話じゃありませんか。
そう、有名な地名は拡散していくのです。
このように調べてくると、地名にも歴史ありですね。
(画像は両国橋東詰にある獣肉の「ももんじや」。江戸時代からあります。)