”スローライフ滋賀” 

「ウォーキング三昧」ブログの続編です。令和元年(2019年)5月1日に移行しています。

円墳2基・宮内庁管理の「市辺皇子」陵墓(東近江市市辺町)

2019-11-21 06:00:00 | 近江の歴史文化・探訪



11月4日(月)午後、東近江市の西市辺地区にある宮内庁管理下の「市辺皇子陵墓」を初めて訪れた。宮内庁管理の御陵があることは知っていたが地元の人も詳しい場所を知らず、不思議なことにグーグルマップにも現れない。

市辺皇子陵墓参道の石柱が近江鉄道市辺駅の踏切・交差点付近に建っており、駅から県道170号線を布施・布引方面へ南東約1.2kmのところにある。市辺薬師如来先の市辺町交差点の先200m位の道路沿い右側で直ぐ分かる。

「市辺皇子陵墓」には円墳が2基あり、東方のものが皇子の墓で周囲約50mという大きさである。西方にあるのは少し小型の円墳は、皇子の従人であった悵内佐伯部売輪(とねりさえきべのうるわ)の墓と伝えられ、周囲約25mである。

市辺皇子陵墓に関して、5世紀の中頃、第20代安康(あんこう)天皇が皇子である「市辺皇子」に皇位を譲ろうとしたが、従兄弟安康天皇の弟)の大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)(のちの雄略(ゆうりゃく)天皇)が自ら皇位に継ごうとして、蒲生野の狩りに市辺皇子を誘い出したと言う。そして大泊瀬皇子は、猪と見間違ったふりをして皇子を射殺してしまったといわれている。
 皇位継承のために肉親の従兄弟同志が殺し合うというこの事件は、「古事記」や「日本書紀」にも残っている。また、集落名の「市辺」もこの墓に由来すると言われている。


遙か1600年前のことであるが天皇家の皇位継承に絡む重大事件がこの近江の地で発生していたのである。道理でこの御陵が宮内庁管理の重要な場所でもある訳だ。いにしえの歴史と、この古墳の意味合いをもっと理解したいものだ。

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もう少し詳しくはWikipediaに沿ってみる。

市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ、? - 安康天皇3年10月)は、記紀・『風土記』に伝えられる5世紀頃の皇族(王族)。



市辺押磐皇子は17代天皇である履中天皇の第1皇子で、母は葛城葦田宿禰(あしたのすくね)の女・黒媛である。また、顕宗天皇・仁賢天皇・飯豊青皇女の父、安康天皇・雄略天皇の従兄弟に当たる。  押歯(八重歯)で、『古事記』では歯の先端が3つに割れていたことから、この名があるという。

第20代安康天皇3年8月、安康天皇が眉輪王によって暗殺されたが、天皇は生前、押磐皇子に王位を継承させ、後事を託そうとしていた。予てからこのことを恨んでいた大泊瀬皇子(後の雄略)は、10月に押磐皇子を近江の蚊屋野(かやの、現在の滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近か)へ狩猟に誘い出し、「猪がいる」と偽って皇子を射殺した。

更に、遺骸を抱いて嘆き悲しんだ舎人(とねり)の佐伯部仲子(さえきべのなかちこ)をも殺して、皇子とともに同じ穴に埋め、陵を築かせなかったという。子の億計・弘計(後の仁賢・顕宗)兄弟は難が及ぶのを恐れ、舎人とともに丹波国を経て播磨国赤石に逃れ、名を隠して縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に仕えた。

清寧天皇3年、億計 ・弘計は宮中に迎えられ、顕宗天皇元年に弟の弘計王(市辺押磐皇子の子)が即位。弘計は置目老嫗(おきめのおみな)の案内から亡父の遺骨の所在を知り得て、改めて陵を築いた。この時、皇子と仲子の遺骨が頭骨を除いて区別出来なかったため、相似せた2つの陵を造ったとされる。

現在、滋賀県東近江市市辺町に存する円墳2基(古保志塚という)はそれと伝えられ、宮内庁の管理下にあるが、かつては東近江市木村町の「ケンサイ塚古墳」(円墳・消滅)の熊の森古墳(東近江市妙法寺町)(前方後円墳)を皇子墓に比定する異説もあった。
『播磨国風土記』に「市辺天皇」とあり、皇統譜には記載されていないが、実質的にあるいは実際に天皇に即位していた可能性が指摘されている。

↑皇子の墓

↑皇子の墓

↑皇子の墓

 

↑悵内佐伯部売輪(とねりさえきべのうるわ)の墓

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