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・・・諦めずに、振り返り、振り返りしつつ記録していきます。
▼12月11日土曜に、まず築地本願寺にて、すぎやまこういち先生のお別れ会に参列しました。
出逢いと別れは、ひとの常です。
とはいえ、辛いことです。
築地本願寺から、飛行機の時刻ぎりぎりで羽田空港に着き、那覇へ。
沖縄は1月に名護市長選、2月には、わが盟友の中山義隆市長が4選を目指す石垣市長選、そして夏の沖縄県知事選など大切な選挙が続き、来年は選挙イヤーと呼ばれています。
ぼくは不肖ながら26歳の時から、沖縄のことをライフワークのひとつとして取り組んできました。
今は、思いがけず国会議員となっているからこそ、謙虚に、あくまでも謙虚に、取り組まねばなりません。
そのうえで、できることは静かにやっていきます。
▼白梅の少女たちについては、これまでずっと発信し続けてきました。
しかし、まったくご存じないかたも、まだまだいらっしゃる、と言うよりは、ご存じないかたの方が依然、はるかに多いと思います。こうしたことも謙虚に考えねばなりませぬ。
▼ぼくが初めて、白梅学徒看護隊のことを知ったのは、26歳の時です。
共同通信に入社して最初の夏休みに、沖縄を訪れ、先の大戦の末期、悲惨な沖縄戦の南部戦跡を訪ねて回るために個人タクシーをチャーターしました。
料金は、新人記者の給料で払えるぐらい、とても安かったです。
回るうちに運転手さんが「あなた、若いのに、こんなに陰気なところばかり回らないで、ダイバーのライセンスも持っているんだから、海に行きましょう」と仰ったのです。
ぼくは、新米の記者であることを明かし、「今回は戦跡だけを回ります」と言うと、運転手さんは「あなた、記者なのか。では、行くところが違うんだよ」と仰り、白梅学徒看護隊の自決壕に連れていってくださいました。
それが現在は、写真の「白梅の塔」が建立されている地です。
ぼくが最初に行ったときは、この塔はまだ、ありませんでした。
沖縄戦の学徒看護隊とは、今で言えば女子高生 ( 当時の高等女学校の生徒さん ) が、日本の兵士の、たとえば足を切断するようなむごい手術を手伝って軍と行動を共にされ、米軍に殺されたり、自決をなさったり、凄まじい運命に直面された少女たちです。
ひめゆり学徒看護隊は、広く日本国民に知られ、ぼく自身も訪ねたことがありました。ありのままに申せば、少女たちの悲劇は同じですが観光地にもなっています。
ところが、白梅学徒看護隊をはじめ他の学徒看護隊は忘れられていて、運転手さんは厳しい表情で26歳のぼくに「沖縄県民だって忘れている。あなた、記者ならば、どんなに非難されても、この白梅のことを伝えてくれませんか」とぼくに言われたのです。
▼以来、ぼくは、沖縄県民を含む日本国民に語り続け、自決壕の暗い奥へ降りて、少女たちに祈りと感謝を捧げてきました。
硫黄島の英霊と同じく、白梅の少女たちも決して犬死にではなく、この同胞のおかげで、いまのわたしたちがあります。
▼長い時間が過ぎ、やがて、当時参加していた関西テレビの「スーパーニュース・アンカー」という報道番組のロケをきっかけに、白梅の少女たちの生き残りのかたがたと出逢うことになりました。
そのうちのおひとりが、写真の中山きくさんです。
白梅学徒看護隊の生き残りのかたなどでつくる白梅同窓会の会長で、沖縄でもっとも高名な語り部のひとりです。
93歳です。とても、とてもしっかりされています。
武漢熱でお逢いできない日々もありましたが、こうやって昨日、12月12日の日曜に白梅の塔を再訪して、お逢いできました。
いつものようにハグをすると、ぼくの腕のなかで16歳に戻られる気がしました。
出逢いと別れは、ひとの常です。
とはいえ、辛いことです。
築地本願寺から、飛行機の時刻ぎりぎりで羽田空港に着き、那覇へ。
沖縄は1月に名護市長選、2月には、わが盟友の中山義隆市長が4選を目指す石垣市長選、そして夏の沖縄県知事選など大切な選挙が続き、来年は選挙イヤーと呼ばれています。
ぼくは不肖ながら26歳の時から、沖縄のことをライフワークのひとつとして取り組んできました。
今は、思いがけず国会議員となっているからこそ、謙虚に、あくまでも謙虚に、取り組まねばなりません。
そのうえで、できることは静かにやっていきます。
▼白梅の少女たちについては、これまでずっと発信し続けてきました。
しかし、まったくご存じないかたも、まだまだいらっしゃる、と言うよりは、ご存じないかたの方が依然、はるかに多いと思います。こうしたことも謙虚に考えねばなりませぬ。
▼ぼくが初めて、白梅学徒看護隊のことを知ったのは、26歳の時です。
共同通信に入社して最初の夏休みに、沖縄を訪れ、先の大戦の末期、悲惨な沖縄戦の南部戦跡を訪ねて回るために個人タクシーをチャーターしました。
料金は、新人記者の給料で払えるぐらい、とても安かったです。
回るうちに運転手さんが「あなた、若いのに、こんなに陰気なところばかり回らないで、ダイバーのライセンスも持っているんだから、海に行きましょう」と仰ったのです。
ぼくは、新米の記者であることを明かし、「今回は戦跡だけを回ります」と言うと、運転手さんは「あなた、記者なのか。では、行くところが違うんだよ」と仰り、白梅学徒看護隊の自決壕に連れていってくださいました。
それが現在は、写真の「白梅の塔」が建立されている地です。
ぼくが最初に行ったときは、この塔はまだ、ありませんでした。
沖縄戦の学徒看護隊とは、今で言えば女子高生 ( 当時の高等女学校の生徒さん ) が、日本の兵士の、たとえば足を切断するようなむごい手術を手伝って軍と行動を共にされ、米軍に殺されたり、自決をなさったり、凄まじい運命に直面された少女たちです。
ひめゆり学徒看護隊は、広く日本国民に知られ、ぼく自身も訪ねたことがありました。ありのままに申せば、少女たちの悲劇は同じですが観光地にもなっています。
ところが、白梅学徒看護隊をはじめ他の学徒看護隊は忘れられていて、運転手さんは厳しい表情で26歳のぼくに「沖縄県民だって忘れている。あなた、記者ならば、どんなに非難されても、この白梅のことを伝えてくれませんか」とぼくに言われたのです。
▼以来、ぼくは、沖縄県民を含む日本国民に語り続け、自決壕の暗い奥へ降りて、少女たちに祈りと感謝を捧げてきました。
硫黄島の英霊と同じく、白梅の少女たちも決して犬死にではなく、この同胞のおかげで、いまのわたしたちがあります。
▼長い時間が過ぎ、やがて、当時参加していた関西テレビの「スーパーニュース・アンカー」という報道番組のロケをきっかけに、白梅の少女たちの生き残りのかたがたと出逢うことになりました。
そのうちのおひとりが、写真の中山きくさんです。
白梅学徒看護隊の生き残りのかたなどでつくる白梅同窓会の会長で、沖縄でもっとも高名な語り部のひとりです。
93歳です。とても、とてもしっかりされています。
武漢熱でお逢いできない日々もありましたが、こうやって昨日、12月12日の日曜に白梅の塔を再訪して、お逢いできました。
いつものようにハグをすると、ぼくの腕のなかで16歳に戻られる気がしました。