雑感「日々是好日2」

NO MUSIC,NO LIFE.音楽好きなのんびり屋さんの日常をつづってゆきます。きょう一日が良い日であるように…。

Life is...

2011-04-25 22:35:07 | Weblog

今月21日19時04分、乳がんのため55歳で逝去した、
「元キャンディーズの “スーちゃん”」こと
女優田中好子さんの告別式が
東京の青山葬儀所できょう行われたそうですが、

そのなかで、
田中さんが生前遺したメッセージが公開された、とのことです。
先月29日に録音された肉声でした。

そのメッセージのなかには、
東日本大震災で被災された方々を気づかう言葉も
含まれておりました。

【ANNnewsCH - スーちゃん「最後の肉声」「被災者のお役に・・・」(11/4/25) @YouTube】




生きるということ、
自らの人生を終えるということ、
さらにその先を見据えるということ...

平成4年に乳がんが見つかり
その後闘病と並行した芸能生活だった...
田中さんの死後はじめて知る
生きざまから
あまりにも考えさせられることが多くて、
いまはうまく文章にまとめることができません。
今後上手にまとめることができるのかどうかも
わかりません。

きょうは
田中さんが遺されたメッセージそのものを
忘れないように、
動画サイトへのリンクを貼らせていただきました。


1か月以上がたって...

2011-04-19 05:00:52 | Weblog

3月11日の震災から
1か月以上が経過しました。


一日また一日と
日付が過ぎるにつれて、
足元がすくむような
たじろいでしまうような...
そんな感じがします。


いまだに昼夜問わず
余震(と思われる地震)が
各地で起きている。

自然界がいったん牙を剥いてしまえば
われわれの想定など到底及ばない...


被災を免れているわたしは
自分の身の丈で
できることを
やっていくしかないのだと、
自分の暮らしを
日々淡々と
粛々とこなしてゆくことが、
めぐりめぐって
届いてゆくのだろうと...
いまのわたしには
それしかできないのだからと...

...自分自身に対して
そんなふうに言い聞かせてはいるものの、
いろいろ考えて
堂々めぐりになりがちです。


ケロイド(蟹足腫)による新たな膿胞が
腫れて膨れ上がり
激しく痛んだ箇所を
皮膚科医さんで切開措置していただいたのですが、
そこの皮膚が脆く弱っていると言われまして
後々まで結構な量の出血がありました。
身体を洗うときにも
水がかからないように、との
御注意もいただきました。

真皮もめくれて「洞穴(ほらあな)か?!」な状態で、
滅菌パッドに薬を塗り
その“洞穴”に蓋をしてやりすごしています。

FMSに起因する
あちらこちらの疼痛やこわばりと
偏頭痛と緊張性頭痛の混合、
ケロイド膿胞膨張に起因する疼痛。
同時多発な種々の痛みに直面する中で、
もちろん自分のことと
家族のことがまず先に
(優先順位が)来るのですが、

被災地で
慢性疾患の治療を
皆さんが受けられる状況にあるのだろうか?という思いが
いまは同時に浮かんでしまうのです。
医療器具の滅菌消毒もおそらくままならない...
ディスポーザブル(使い捨て)の器具が
充分に足りている場所ばかりでもないだろう...
人工呼吸器や人工透析の機械や
MRIやCTなどなど
稼働できる電力がいきわたっているのだろうか...

通院または在宅治療者への回診には
車のガソリン給油困難や道路渋滞も
障壁になりうるだろうし...

医療を施す側も
医療の恩恵を受ける側も
日々刻々苦慮しているのではないかと...

だからと言って
自分がどうこう
現地で具体的に手を差し伸べることが
できはしないのに...

それでも
いろいろ考えてしまう。


自分でも
いったい何なんだろうな、と思ってしまうのですがね...



平生にも増して
なんだかまとまらない駄文で
申し訳ないです。


【♪FURUSATO - Soulhead @ YouTube】



【♪Stars - STARDUST REVUE @ YouTube】


震災、そしてあの日のことなど...(4)

2011-04-15 05:00:25 | Weblog

 (※Evernoteに書き留めたものを転載しています)
===================================

震災さらには東京電力の計画停電の影響で
交通網混乱のなか、
弟夫妻も関東から
父親の入院先に駆けつけてくれました。
義妹は勤務先が冠水したらしく、
前日までその後始末に借り出されていたと聞きました。
羽田空港に出るまで、平生の何倍も時間をかけて、
動いている路線を幾度も乗り継いでくれたようです。

親族4人が病床の傍らに居ると、
さすがに医療側の作業...というか動線の妨げになってくるので、
看護師さんや介護士さんが来られるたびに、
わたしたちは席をはずしたり場所を移動したりしておりました。
看護師長さんからは
「せめて2人部屋があいていればよかったのですが、
 窮屈な思いをさせてすみませんねぇ」と
お詫びの言葉を頂戴しまして、
正直こちら側が申し訳ない思いでした。



父親が口元を緩めながら
ゆっくりモゴモゴ・クシャクシャさせていて、
それがあたかも
何か美味しいものでも食べている夢を
見ているかのように映りました。
母親は
「おとうさん、美味しそうやなぁ。
 ステーキでも食べよるが?
 (ステーキでも食べているの?)」
父親に何度もそう語りかけました。

アルカイック・スマイルか、
杉兵助さんのクシャっとした微笑のように映っていた表情が
「・・・いや、これは美味しいものを食べている夢でではなくて
 異物の不快感を表現できないだけじゃないのかな?」と
なんとなく感づくまでには
少し時間がかかりました。
母親はさっきからの語りかけを繰り返していました。
野菜嫌いで「肉、肉、にく、ニク~!!」だった父親に
(さすがに2度めの脳疾患以降は
 比較的野菜も食べるようになったようですが)、
美味しいステーキの食後の満足感を思い起こしてほしい
一縷(いちる)の望みがあったのかもしれません。

ほどなくして父親の表情が苦悶に変わりました。
痰が絡んで苦しいのを訴えているようでした。

平生、ナースコールボタンを押すのでなく、
詰所の様子を覗いて
居合わせた看護師さんに声をかけているようでした。
わたしはナースステーションに急ぎました。
(続く)


震災、そしてあの日のことなど...(3)

2011-04-09 23:13:14 | Weblog

(※Evernoteに書き留めたものを転載しています)

==================================================================

わたしが父親の入院先(愛媛県某市内)に到着した時、
すでに母親が父の傍らに居ました。
人工呼吸器設置措置が施されて、
おかげさまで
父親は悪いなりにも落ち着いた様子でした。
危機的状況からひとまず脱したのかな、と思いました。
その病室には
父親含めて4人の患者が居ました。


病室に入ったわたしが
「この音、なに?」
母親が
「あぁ、それは機械(人工呼吸器)から出よる音じゃ」

母親は気に留めていないようでしたが、
その音のリズム(間隔)が均等でないのが
わたしは気にかかっていました。
それで、「この音、なに?」と。

様子を見ているうちに
父親の心臓の拍動そのものが
前述の「音」であることに
気づきました...



数時間後、
看護師長さんと看護主任さんが
巡回で来られました。

「ビックリされたでしょう。すみませんでしたね。
 お父さん、もともと不整脈があったんですけど、
 心臓のほうも弱っていて、
 呼吸が弱って
 顔色も急に蒼(あお)くなったんで、
 取り急ぎ電話させてもらったんですよ。
 (人工)呼吸器つけてからは
 落ち着いてきましたのでね」
御説明をいただきました。

「ありがとうございます」 

さらにあとから伺ったお話によると、
主治医である脳神経外科のM先生が
ご自身の体調を悪くされて
お休みを取られている間の出来事だったそうです。
たまたま別のふたりの先生(脳神経外科部長のN先生と、H先生)が
病院にいらしたので、
急いで措置をしていただいたのだと。



四国にいる間は、
とにかく
できるだけ...ですが、

母親に余計な心配をさせまい、と思いました。
食事内容(食事の量や時間帯など)、
さらには視聴する番組...
すべて母親に合わせました。
母親の目の前では薬を飲まない。貼らない。点さない(ささない)。
自分の身体(の痛む箇所)をさすらない。



看護師さんだけでなく、
介護士さんや
清掃員さんなどなど、
おおぜいの医療従事者が
入れ替わり立ち替わり
病室に来られていました。
いのちをささえるために
実にたくさんの手をお借りしていることを
あらためて知りました。

体格の良かった父親は
すっかり手足がやせ細り、
まるで食べ終わったあとの鶏の足(=骨)のような
状態になっていました。
身体がちいさくなってしまっていました。
全身の衰弱がどういうことなのか
あらためて見せつけられた瞬間でもありました...
(続く)

震災、そしてあの日のことなど...(2)

2011-04-03 01:09:00 | Weblog
(※Evernoteに書き留めたものを転載しています)
=================================

東日本大震災(閣議によりこの呼称になった)は、その規模からして
日本列島全体を揺るがすものでした。
今回、地震及び津波の被害のみならず、
福島第一原子力発電所までも同時に罹災したことで、
世界的被害だという認識も少なくないかと思います。

言葉の用い方として適切さを欠くかもしれませんが(すみません)、
日本にとって、平時に対する「有事」そのものだ、
戦後最大の危機が訪れたかもしれないのだ、というような
切迫感は否めない。
対岸の火事などではない。

その、お国全体の「有事」に、
わが家の「有事」が
タイミング悪く(←不謹慎かもしれませんが、率直にそういう心情でした...)重なった。
お国の有事をほったらかしてでも、
わが家の有事に緊急に専心対応せよ、と。
そういうことでした。


父親が過去4度脳疾患で倒れた連絡を受けたのは
いずれも、
わたし自身の勤務先での重要イベントや
繁忙期で抜けられない時期と
見事に重なっていました。

東京本社からの来客応対当日にして
出張旅費支給配賦日の朝。
経理監査説明対応で待機命令の出ている朝。
わたし自身の右眼のオペ前日の昼間。
そして日夜問わず
飲まず食わず眠らずで
ずっと働きづめだった年次の夕方。

しかし
今回がいちばん
体力的にも気持ちのうえでも堪えました。
これまでの比ではありませんでした。

前回駅のホームで
立っていられなくなったことも
自分の脳裏をよぎりました。
今回はそのときよりも
自分の身体の状態が悪化している。

とはいえ
そんなことは言ってはいられない。

残った体力と気力を振り絞って
火事場の馬鹿力を総動員して
交感神経100%で
事に当たるしかない。
あっち(四国)に居る間さえ持ちこたえれば
それでいいのだと。
そう腹を括っていました。

そういう覚悟がなければ
持ちこたえることは到底できないなと。
そう思ったのです。
(続く)