土屋龍一郎のブログ

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新潟の寿司はパワフルだ。

2005-10-21 00:38:54 | これを喰わず
 「それは港寿司がいいだろう」
 新潟でちょっとした時間の合間に寿司を味わうにはどこへ行けば間違いないだろうかと尋ねた時に老舗酒屋の早福さんが勧めてくれた寿司屋はホテルイタリア軒から徒歩5分。
 ランチの時間に間にあったので7個+巻寿司ランチを頼んだ。
 「新潟のお客さまはネタが良いのは当然で、シャリが良くないと納得してくれません」と板前さんがおっしゃる。さすがは米どころ新潟である。
 出されたお寿司もとにかくシャリのパワーが強い。素人考えではあるが、新潟のお米はまるで餅米かと思うほど丸い。そして一粒が重い。
 同じ北陸沿いにある富山の寿司と種類が違う。新潟のどかんとした座りの寿司に比べると富山の寿司はつんとすました感じがある。新潟の熱さに比べて富山はひんやりしている。
 考えてみると新潟では、ネタもシャリも酒も全部地元で調達できる贅沢さである。
 長野の寿司はネタを他県から仕入れて、酒と米こそ長野産ではあるが、酒の麹は新潟から仕入れていたりするから、自給率は30%くらいである。
 漬け物だったら、長野は自慢ができるけれど・・・ああ、野沢(菜)が長野県で良かった。

申し込み日

2005-10-20 10:55:27 | Weblog
 気力が充実している時には、一日を充実したテンポで過ごすことが出来る。
 早起き・ウォーキング・朝食・新聞・早朝出勤
 特に朝食を採ることは午前中の仕事の能率に相当関わりがあることが、権威のあまり無い私の独自の体験からでも明らかである。
 情けないことに、朝食を、常備している持参の「カロリーメイト」で済ませた日の午前中などは、全く仕事の能率が上がらない。一般的に午前中のほうが仕事の集中力が高まるといわれているので、そんな日の午後はさらに能率の上がらぬだらだらした一日になってしまう。ぼけているあたまに気合を入れようとして煮詰まったコーヒーをがぶがぶと腹に流し込んでみるけれど、流し場の往復も無駄な時間である。

 無理にでも早起きから始まる朝の儀式をきちんと行うことで、逆に気力を充実させるスパルタ式(最近聞かない言葉だな)な自己啓発が必要な今日この頃である。

 親しい友人から、来年2006年4月に予定されている、長野オリンピック記念長野マラソン参加を誘われている。
 危険である。小布施でのハーフマラソンでも身体も精神もあんなにきついのに、フルマラソン参加なんか私にとってキチガイ沙汰である。
 が、最も危険なのは、「えいやっ」と参加を申し込む誘惑に負けそうなのだ。
 今日がその申し込み開始なのだ・・・・・
 それによって、朝から一日の充実を手に入れることも出来るし・・・・・

亀の子ダイエット

2005-10-19 17:49:34 | Weblog
 亀の子だわしである。
 いつの頃からか自宅の風呂場に居座っている。
 メジの汚れを落とすブラシは別にあるから、何に使うものなのか不思議に思っていたが、女房と娘(高一)が腹をこするのに使っているとのこと。
 (?)
 「だって、これ本当に効果あるんだから」といって、見せてくれた二人の腹周りは、なんと確かにすっきりとして筋肉がわかるような筋がついている。
 試してみると、すごく、痛い。ものすご~く、痛い。
 「あのね、始めは痛いけれど、そのうちにこすってくれっておなかの方から言ってくるようになるのだから。まずおなかにぎゅっと力を入れるところから・・」
 (?)
 我がおなかがその境地に達するまでにしばらくかかりそうだ。
 マイクロダイエットの宣伝を都内の電車で見るのを大変に楽しみにしている私としては、たった一個の亀の子だわしが、私をすっきりした「やせ組」に導いてくれるのならば超安上がりである。
 おっ?今朝鏡に映してみると、こすれて赤く線が入ってはいるけれど、心なしか腹回りがすっきりしているような・・・

イッセイ尾形的トラブル

2005-10-18 09:31:01 | Weblog
 イッセイ尾形の初期のネタに、人が一人入れるようなビルとビルの隙間に入り込んでしまって抜けなくなってしまうという、不条理を絵に描いたような傑作がある。道路側に顔を向けたまま、身動きが取れないが、どうも奥のほうは広がっているようでもある。助けを呼ぶこともままならず、かといって奥へすすむことも危険だ・・・という想像しただけでも胃が痛くなるシチュエーションである。

 最近、私の身の回りや親しい友人に、大変に大きなトラブルが起きている。厳しい競争社会の中であるから、日常的に問題を解決してゆかなければたちまち周回遅れの走者になってしまう。それにしても、である。社会の仕組みが世知辛くなったのか、社会の眼が鍛えられたのか、だんだんとさらに狭い小路に追い込まれている感がある。更にネット社会の情報網が小さなきっかけをフル出力で増幅して世間にぶちまけてしまうから、気が休まる時が無い。
 そんな折、追い討ちをかけるように社員が交通事故に遭ってしまった。また、急に病欠が出る。結婚退職の願いが出る。
 何かの暗示であるとでもいうようなスパイラルに入ってきた。
 まるでイッセイ尾形的というか『シーシュポスの神話』的に解決されない状況である。

 悩んだ挙句に一年も前から今月末に予定していた休暇と洋行を残念ながら取りやめることにした。関係者にお詫びとキャンセルの手続きをして、発生したキャンセル料金の支払いを手配して・・・次に来るかもしれない何かのトラブルに備えることにした。
 おかしなもので、そういった対処をした日の午後に、2年半も引きずっていた別の課題が突然、最善の形で解決してしまった。

「富士日記」武田百合子はブログの元祖だ

2005-10-17 22:13:29 | これを読まず!
 武田泰淳の奥様である武田百合子氏の「富士日記」は、単なる日記文学(?)ではない。
 昭和39年7月4日から昭和51年9月21日までなんと13年間にわたる日記をおさめた、中公文庫全3巻はそれぞれが500ページ近い大作である。
 武田百合子文学にぞっこん惚れてから、朝に夕に晩に、すこしづつすこしづつ読み進めてきた。日記だからどこで切り上げても良いのが便利だった。
 最初の方の気負いがだんだん抜けて、リラックスしてくると武田氏の視点は読者に近付いて、まるで自分の生活が切り出されているように思えてくる。

 先日NHKラジオで日記を書くことについてあるリスナーが、「自分が死んだ後に読まれることを思って10年間分を読まれても良い文章に書き直した。そしたらそれ以降書く気が失われてしまった」と語っていた。いったい日記とは誰のためにかかれているものなのか分からなくなってしまったとのことだ。

 武田百合子氏の富士日記は読み終えて分かったが、壮大な恋愛私小説だった。夫である泰淳氏と娘である花さんを登場させて、食べたものと買ったものを書き連ね、日常の出来事を記す。その日記は時々日がとんでいる。ある年は2日間しか書かれていない。実はその年、泰淳氏が大病を患ったのだと、後から分かる。
 そして最後の一日はおそらくその後日体調を崩して泰淳氏が亡くなったと思わせるところで終わっているのだ。そういえば、家族で食べるものが13年間で大変に変化していることもあとから分かる。
これは、なんとすごい文学なのだろう。

 ブログの元祖である。

ビバ新潟2「海を見ていた午後」

2005-10-16 14:43:59 | Weblog
 講演までの数時間、自由な時間があって、買い物に出たついでに海が見たくなった。
 長野県人だから。
 道を尋ねるとこの道を真っ直ぐお行きなさい。10分もすれば海が見えますよ、との話。
 地図を見ながらずんずんずんずんと海に向かって歩いた。今大変に頭を痛めている件について考えに没頭しながら歩いて、40分くらい経った頃、まだ海が見えないことに気がついた。そこは大きな造船所があるから確かに海に近いはずだった。
 手に持ったままの地図を広げてみると、北へ向かったはずが東へ向かっていて、景色はさびれるばかりである。
 もう曲がるしかないどんずまりまで行ってから北上すると、すぐに目の前に海が広がった。天気が良くて佐渡島まで見渡すことが出来た。
 大変に静かで波の音さえ吸い込まれてしまっていて、太陽光の当たる音さえ聞こえそうな天気だった。海岸沿いの国道を今度は40分かけて戻った。犬を連れた男や女、立ったままはるか沖を眺める年寄りや男たち。台風も地震も津波も無いのであれば一度暮らしてみたい場所だった。食料だけでなく、景色まで自給率の高い新潟県であった。

ビバ新潟

2005-10-15 14:32:21 | Weblog
 新潟JCの新人研修担当の委員会で講演をした。
 私の場合、講演時間の長さに関係なく、どんな聴講者がどれくらい集まるのか、関係者とオブザーブの顔ぶれ、行った先の近況やトピックス、自慢やタブーなどを事前に調査して、その上で箇条書きの講演原稿を作らないとうまくしゃべることが出来ない。
 結構小心者なのだ。
 今回は37人という大人数の新入会員と同数くらいのオブザーブ会員を相手に、入門編的な話を用意していった。
 実際に話し始めると結構準備したものと現実に差があって、聴講者の集中力が切れてしまうことがある。
 今回の講演では、新入会員とは思えないくらい訓練が行き届いていて、バンバンと質問が出たり、積極的に意見をいう姿があった。こうなると私も熱が入ってきて、だんだん難しい話題に入ってゆく。それでも時間一杯まで私と会場内とで大変に熱を帯びたやり取りをすることが出来た。充実した経験となった。
 さらに、謝辞を担当した新入会員の一人がブログや経歴を実に念入りに下調べした上でこころのこもった言葉を選んで私に伝えてくれた。彼はその重圧で謝辞直後に腹痛を起こして帰宅したくらいだ。
 さて、「自分がこうなりたい・こうしたい」を100万回話しても、相手に伝わるとは限らない。そうなると自分自身が本当に「こうなりたい」と思っているのかどうか心配になってしまう。ところが別の方から「土屋さんはこういう事をしたい、こうなりたいと思っている方ではありませんか」と不意打ちされて、しかもそれが自分で口に出してはいないけれど、自分で自覚していないけれど、そのとおりであったりすると、うれしいとかの感情よりも、まだまだ学ぶことより教わることのほうが影響が大きいことを実感する。
 今回の石川君という新入会員の謝辞でいただいた一言については自分の心の中に潜む謎を解き明かされたような体験であった。
 ありがとうございました。

木を植えた男記録

2005-10-14 14:14:26 | Weblog
 8月22日に植えたネグンドカエデがすくすくと育っている。
 到着した時にしおれてかさかさと葉が落ちてしまった。細い枝としおれて丸まった葉の間に数枚の若い葉がくっついていた姿を見て、「これ、本当に育つのだろうか?」と思ったものだ。小説「木を植えた男」では、来る日も来る日も面倒を見て、荒廃した土地を緑で一杯にした話だが、そこまでの辛抱が無い私にとっては半信半疑で成長を見続けていた。
 いつものようにばしゃばしゃとデジカメで撮った写真を見返していると、あれ?この木、葉っぱも枝も太く育っているぞ。いつの間にか弱った枝と葉を落とし、みずみずしい茎や柔らかな葉をたくさんつけていた。
 時々周囲にはえた雑草を抜いてやるが、アスファルトに焼けた地面の真ん中にある割には涼しげでしっとりしている。
 相変わらず駐車する車には気を使う位置だが、それでも育つこの木の将来が楽しみである。

庁内全面禁煙

2005-10-13 08:12:58 | Weblog
 最近の県庁付近で昼間は路上と木立の辺りで、夕刻から残業時間には暗がりで怪しい人影が数人たむろしているのを目撃した人は多いと思う。
 長野県庁内が全面禁煙になってから、この職員さんたちは仕事の合間なのか、さぼっているのか、休憩中なのかは判別できないが、外でたばこを燻らせる。さすがに吸い殻を投げ捨てる人はいないようだけれど、県庁を訪ねる人たちは、私も含めてその光景に唖然としたと思う。
みっともないと思う。
タバコを吸うことを否定しません。
私はタバコを吸わないけれど、大変に気分のよろしい日の夜や、大変くさくさした日の夜に一日を振り返って「ふうううう」と煙を吐き出したらどんなにかおいしいだろうと憧れているからだ。
さらに言えば、仕事がいい加減になって後輩から疎まれはじめたら、タバコも酒もがんがんやって不健康になって世間から離脱したいと思っているくらいだ。

 だが、いい年をした方々が、県庁の周りでたばこを吸う姿は大変にみっともないと思う。モクモクと煙が充満する喫煙室に押し込まれてヤニ臭くなっていてくれた方が、世間のためだ。
なにゆえ、庁舎内の灰皿を全面撤去したのか?
なにゆえ、長野県の全施設から喫煙室を排除したのか?
健康のためと言うならば、外で吸うタバコも禁止してほしい。
まったく、みっともないと思う。

ボンダイブルーのi-Mac2

2005-10-12 08:10:04 | Weblog
<つづき>
 なぜ、高機能の新機種パソコンを買う気が失せてしまったのか?
 日本の高度経済成長期には、先輩の世代が「あいつが買うならば俺にも買える。どうせならば自分が先に買ってやる」という勢いで三種の神器と呼ばれた洗濯 機冷蔵庫テレビを買いまくった。さらに団塊の世代の爆発的な人口が購買意欲を煽り、物質至上主義に突入した。井上陽水が「限りない欲望」と呼んだ精神構造はあっという間に日本を経済大国に押し上げた。
 私が物心付いた時にはなかったものが突然現れるというよりも、家にあった機械が年々バージョンアップして買い替えられていた時代だったから、「限りない 欲望」のスタートを知らずにバトンを受けた中継ぎ選手のような世代だ。大学生の時には欲しいものは月賦で買うことが当たり前になっていた。
 丸井の赤いカードがそれを支えてくれた。
 気が付いたら何のために自分のお金を使っていたのかよく分からなくなっていた。月賦が払い終わった時には新しい欲望を刺激されて後継機種を買わずにいられなくなっていた。

洋服もそうだ。
センスと情報収集能力を磨かれて、良いものは高額である理屈を知ってしまった。
だから、新しいファッションが気になって仕方がない。似合うかどうかは別物だ。
タンスの中にしまわれた洋服は時代が回って、もう一度ブームになるまで捨てることもできない。

さて、そろそろ次の世代にバトンを渡そう。
ところが、次の世代は「高性能の新機種パソコンなんていらない。いちおうi-modeで十分っすから」
「新しいファッションも良いけれど自分らしくするためには古着で安く済ませることもOKっす。」と言ってバトンを受け取ってくれないのだ。

参った。
そうだよな。おれも忙しくてこの自宅にあったパソコンほとんど触ってねえよな。
と思うと高機能の新機種パソコンを買う動機がいかにもそらぞらしい迎合主義に思われてしまったのだった。
 HPを検索すると、未だにボンダイブルーのi-Macを現役で使っている人がたくさんいる。私ももう一度この愛しい機種を使ってみようかと思っている。けど、けど、今となってはやっぱりデザインがちょっと古いよな・・・・