土屋龍一郎のブログ

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男たちの大和

2006-02-07 00:44:46 | Weblog
 「男たちの大和」を見た。早起きした休日の午前中から昼過ぎまで、2時間半に及ぶ大作だったが、時間がとても短く感じられたほどすばらしい出来だった。以前、「亡国のイージス」で、原作がすばらしすぎて映画でがっかりという経験があっただけに、今回の見事さには日本初戦争映画万歳を叫びたい。
 見た感想は、
 「戦争に大義なんてあるものか」「死んではいけない」という、非常にストレートでわかりやすい、だけれど強い意思だ。
 2006年は戦争と、日本の戦後を総括して、新しい戦後に向かう年だ。そのきっかけとして、すべての日本人にこの映画をお薦めしたい。奇をてらってもいないし、トリックもない。ダレる場面なぞない。スピード感がある訳でもない。それでも目が離せない。完成した時から悲劇の戦艦であった「大和」を見ながら、反戦・非戦の意義を身体にしみ込ませて、自分の役割を認識して欲しい。
 この、はじめから終わりまで涙なくしては見られない映画を見て、急激なナショナリズムへの警告と本来日本人が持つものが失われていないことを切望する気持ちになった。
 五つ星である。

長野少年サッカースクール

2006-02-06 00:40:02 | Weblog
 長野市内の小学校3年生から6年生まで合計約80人が参加している長野少年サッカースクールに、4年生担当のコーチとしてお手伝いをしている。 
 毎月の日曜日に2回ほど城山小学校のグランドか体育館をお借りしている。昨日も、2月1回目の練習日だった。
 いろいろな都合で4回ほど連続して休んでしまった。久しぶりに会う子供たちの顔つきがしばらく見ない間に成長してしまっていたことに驚く。
 この時期、校庭は雪が積もっていて使えないから体育館で練習だ。朝8時の体育館は、冷蔵庫の中そのものだ。床も壁も窓も凍り付いている。自分自身がこのサッカースクールの生徒だった30年前とおんなじにおいがする。子供の体育館シューズの底のゴムのにおいやワックス・ほこりが混じったにおいだ。軍手をしていても腕立て伏せする手が冷たい。十分身体を温めないと、ランニングの途中で身体がバラバラにはずれてしまう。
 元気な子供たちは下着にジャージだけの姿で白い息を蒸気のようにはきながら走り回っている。サッカーの練習としては人数が多すぎて、体育館が狭く感じる。途中で呑む水も凍り付いているようだ。
 月にたった二回のスクールでは毎日練習しているクラブチームの子供に技術ではかなわない。それでも伝統のスタイルで子供たちに何か伝えたいと思って続けている、青年会議所が始めた37年にも及ぶすばらしい継続事業だ。
 3時間半の練習を終えて帰宅するとすぐに風呂につかる。皮膚と筋肉が緩んできて、血液が回るのがわかる。やめられまへんな。

節分2

2006-02-05 23:37:49 | Weblog
 我が家の節分の儀式。
 節分には、米と麦を炊き込んだご飯にとろろ汁をかけて食べる。子供の頃には自分の年の数だけおかわりしたものだが、女房の実家の流儀に従って、年の数だけ豆を食べることにおさめた。とろろ汁には、マグロを入れていた時もあったけれど、優しい食べ物で胃腸を丈夫にするという趣旨に反するよな。
 食事が終わると、豆まきだ。
 一升枡に善光寺さんでいただいた豆を入れて、家中の窓を開けて部屋ごとに豆をまく。
 「鬼は外、福はうち」
 そして、最後から一番の年下が「ごもっとも、ごもっとも」と言いながらとろろ汁を摺ったすりこぎを振り回す。この部分はどうもほかの家庭でやっている様子がない、オリジナルのようである。
 投げられた豆は、外に落ちると春までに小鳥やら犬やらが食べてしまう。うちの中に落ちたものは家族の誰かが密かに食べてしまう。誰も気づかないところに投げられたまめは掃除の時に片付くが、何の拍子か秋に衣替えする時まで気づかれずに残っている豆もある。
 これはこれで、全くの季節外れにからからに乾いた豆を食べるのもうれしい。

節分

2006-02-04 23:28:40 | Weblog
 昨日2月3日は節分である。
 次男が戌年の年男なので、善光寺さんの節分豆まきに申し込んだ。ちなみに写真の般若はその次男の作品だ。
 これは、年男年女がスタアと呼ばれる特別来賓と一緒に善光寺さんの境内から集まった観衆に向けて一升枡に入った豆やらお菓子やらを投げて、福を配る儀式だ。
 数年前に女房の実家からこの伝統行事参加を勧められて以来、家族に年男年女がいると必ず申し込んでいる。
 今年招かれたスタアは、高島兄弟・アーチェリーの山本博さんなどと長野出身の行列のできる弁護士北村さんなどだ。
 豆やお菓子が投げられるたびに、キャーキャーと言って福を拾う。
 あまりの騒動に、次男はすっかり呑まれてしまって、境内で静かになっている。
 平日の昼間のせいか、12歳の年男年女は2人だけ。観衆ももちろん勤め人や子供はほとんどいなくて、高齢者や主婦だった。
 そうか、こういう人たちに福は集まっているのか。

 蛇足の一文
 結構高い申込金だったので、申込者一覧で張り出された次男の名前が書かれた経木をもらって帰ろうとしたら、それはだめだと言われた。次男の名前が黒々と墨で書かれた板など、本人以外が欲しいわけないじゃないか。と言って頼み込むと、千円だと言う。昨年までは豆まきが終わった年男年女が帰り際に自分の板を(ただで)もらって大事そうに抱えて帰っていたのに。
 世知辛くて興ざめだった。

読むのがもったいない

2006-02-03 23:14:10 | これを読まず!
 武田百合子氏の「ことばの食卓」を読んでいる。
 武田氏は日記文学の最高峰だと思う。
 昨年、氏の作品を読み始めてから、出版されているものを次々に読破した。
 今は、「ことばの食卓」を読んでいるが、読むほどに残りページが少なくなるのが悔しくて一度に一章づつだけ読むように大事にしている。食べるものにまつわるエッセイ集なのだが、言葉の一つ一つの選び方が、おいしい。
「これを読まず」シリーズとして読了していないけれど、お薦めしたい一冊である。
 このブログを書くためにGoogleで調べたら、「み言葉の食卓」という言葉に出会った。
 「み言葉の食卓」というHPはどうやらイエスの言葉を紹介するHPのようだ。武田百合子氏のエッセイの題は何か関係があるのだろうか?

うまいもの

2006-02-02 00:43:45 | Weblog
 友人のA君は僕と同郷で、気骨あふれる紳士である。
 私が彼の住む街を訪ねた時に、うまいスパゲッティを食べにいこうと言ってちょいと名が知れてきた郊外のレストランに連れて行ってくれた。その時点で私はけっこう酔っぱらっていたのだが大人数で押し掛けて再会のお酒を飲んで、いよいよスパゲッティが出てきた。
 一目見るなり彼の顔がこわばり、フォークに絡めて顔色が曇ったと思ったら、急に顔を真っ赤にして「すまんがチーフ呼んでくれ」と言い出した。顔見知りのようであったフロアチーフがくると、「今日は、誰がこのスパゲッティ作ったの?ちょっと食べてごらん」と私たちの前に出されていた皿をチーフに差し出した。私はそれなりにうまいと思っていたが、「おれはさ、わざわざ友達を連れてきてんだけど、いつもと違うだろ」とA君は静かに、だけれど強くて地面からわき上がるような迫力でチーフを問いつめた。チーフによると実は何かの都合で見習いコックさんが作った一皿だったとのことだ。
 
 そのあと、ずいぶんと遅い時間だったにも関わらず彼はお詫びしたいと言って、自分が関係しているこじんまりとした別のレストランまで移動して後片付けしていたシェフに頼み込んでスパゲッティを一皿作ってくれた。
 ほ・ん・と・うに、うまかった。
 はじめに大人数で押し掛けたあのレストランはきっと二度とあのパゲッティを客に出さないだろう。次に出かけたらきっと名誉挽回する味を出すだろう。
 うまいものなどの文化は作り手の厳しい修行はもちろんんだがそれを育てる厳しい旦那衆がいて初めてよりおいしくなってゆくのだろう。なんでも喜んでいるだけじゃなくて、おかしいと思ったら言う勇気も必要だな。

グレンファークラス

2006-02-01 00:23:41 | Weblog
 京都で「グレンファークラス(glenfarclas)」のとっても珍しいボトルのシングル・モルトウィスキーを飲んだ。
 先斗町(ぽんとちょう)の細い路地の狭い階段の突き当たりにある、「club dessert」というバーへは1994年ごろ偶然に飛び込みで入ってから、毎年1月の第3週に立ち寄る。マスター一人でつまみも食事もない、本当のバーだ。ビクターラズロに同じ名前の名曲があったけれど関係あるのかどうか知らない。いつも尋ねようと思って忘れる。もしかするともう尋ねたかもしれない。
 この写真を長野のバーRITAの増田さんに見せたら、「これはもう最近のものと全然違う世界のお酒です」とおっしゃっていた。味もこの世界のものとは思えなかった。何しろアルコール臭さとお酒本来のコクが渾然一体となっていて舌と口の中でくるりと回るのだ。1時間半かけて一杯のお酒を飲んだ。その間ずうっとシングルモルトのコレクターの写真集なんかを見せていただきながら楽しんだ。(それくらい居座っても怒られないくらいの品格と値段だった。)
 村上春樹氏の「もし僕らの言葉がウィスキーであったなら」という、題名からして少し酔っぱらってつけたようなアイルランド/スコットランドの紀行文がある。ここに出てくる奥さんが撮った写真を見るとこの国は緑と水が豊かなのに寒々としている。シングルモルトを飲む時はバーボンみたいに騒ぐ気持ちにならない。それはこの寒々とした景色が濃いウィスキーの色にとけ込んでしまっている、魔法が効いているせいだろう。