個別指導塾 ONE-S(ワンズ)のブログ

堺市上野芝にある個別指導塾です。進学から補習、不登校の子どもの学習サポートなど、さまざまな子どものニーズにこたえます

親父と仕事と私①

2022-09-04 12:59:12 | 教室から
こんにちは。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。

私には79歳になる父がいます。つい先日コロナ陽性になった父です。父は愛媛県の宇和島というところの、端っこにある山と海に囲まれた、「ぽつんと一軒家」で出てくるような、そんな場所で生まれ育ちました。

9人兄弟の末っ子で、戦争中に生まれたのでとても貧しい生活をしていたらしく、それでも兄弟たちが支えてくれてなんとか高校までは行くことができたようです(いろいろあって中退したようですが)。そんな父が都会にあこがれ、仕事を求めて大阪に来たのは19歳のときです。戦後直後といえども、父が育ってきた地域と大阪とではずいぶんと世界が異なったでしょうから右も左もわからない状態で私には想像できなほど大変だったことでしょう。私が19歳のときといえば、まだアルバイトの経験すらなく、20歳にになって初めてのバイトで1日で辞めてしまい、給料をもらいにいくことができなくて、代わりに親父に取りにいってもらったほど1人では何もできない人間でしたので、それを考えると「親父すげーな」と思います。

一人の男として尊敬できる面もありますが、父親としてはどうだったのかなあ?
今回は親父の話をしますね。

親父は25歳のときに結婚し、子ども3人できました。私は次男です。私が生まれた頃は親父はまだ働いていない状態でした。3つ下の弟が生まれたときも働いていたのかな。正確には職についてもすぐに辞めて、転々と職を変えていたらしいです。うーん、大阪府警を2週間で辞めた私は親父のこの遺伝子をもろに受け継いでいたのか(笑)母親の話によると、毎日飲み歩いては酔っぱらって遅くに帰宅し、それが原因でよくケンカをしていたらしいです。それはなんとなく記憶にありますね。

働いていないので、当然生活するお金がなく夫婦だけで暮らしていけないから、母の実家で私たちは暮らしていました。当時は大家族なんて珍しくもありませんでしたから、家族7人で暮らすことに不満もなければ、毎日にぎやかで楽しかった記憶しかありません。ただ1つ気になっていたことがありました。それは親父のことです。親父が家族の中で1人だけ浮いてしまっているのです。子どもながらに「親父はこの家族に馴染んでないなあ」と感じていました。まあ義理の両親の家で生活しているわけですから、居心地がよくなかったのでしょうが、もっと言えば居場所がないという感じでした。働いていない親父を特に祖母や母はよく思っていなかったのでしょう。祖母が親父に嫌味を言っているのを何度も聞いたことがあります。「頭の黒いネズミがトイレに入っている」なんてことも聞いたことがあります。これはちょっと酷いですね。ですので、お正月に家族全員で食卓を囲むときなど、祖母と親父がケンカを始めないかとヒヤヒヤしたものです。

フラフラしている親父を見て、祖母や母が文句を言うのも理解できますから、私としてはどちらの方をもっていたわけではありませんが、なんとかしてほしいなあとは思っていました。私が小学生になったころでしょうか、親父が新しく仕事を始めました。何の仕事か当時はよくわかりませんでしたが、どこか会社に勤めるのではなく、個人で始めたようです。数年後に知ることになりましたが、個人で印鑑を売る仕事でした(世間を騒がしている、いわゆる霊感商法ではございませんので、ご安心ください(笑))。親父は毎朝早く家を出て、帰るのも遅くなりました。以前のように酔っぱらって帰ってくることもなくなりました。それどころか、寝泊りをその事務所でするようになりましたので、中学生以降は親父と顔を合わせる機会がどんどん減っていきました。その頃に親父とどこかにでかけることはもちろんですが、じっくりと話をした記憶もありません。ですが家には兄弟や祖父母、母がいて毎日にぎやかでしたので、寂しいと思ったことはなく、3兄弟と親父との距離はこの頃はかなり離れてたように思います。

親父にしても、家には居場所がなかったので、生活の拠点を事務所にした方が気楽だったのかもしれません。仕事の方はうまくいっているのかどうか、私たち兄弟は何も知らなかったですし、知ろうともしていなかったように思います。いつの間にか、親父が家にいないことが当たり前になり、嫌いになったとかそういう感情ではありませんでしたが、家族でありながら親父に対して無関心になっていなのは確かでした。

次回に続きます。

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