こんばんは。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。
とても長くなってしまいましたが、もう少しお付き合いください。
ひきこもり時代の私に親父はよく「お前、なんかしたい仕事ないか?どんな仕事がいいんや?」と声をかけてくれていました。いくつか知り合いの会社の経営者の方がいたようで、私が希望すればそこにお願いして入れてくれようとしていたみたいです。ですが当時の私はとにかく自信がなく、そういう自信のなさを家族に知られたくないという気持ちから「俺はだれとも関わらない仕事がしたい!だから会社では働かない!」とせっかくの親父の気持ちを無駄にしていました。それでも親父は見捨てずに、「それだったら、俺の仕事を手伝わないか?ちょうど印鑑のチラシを作ってほしかってん」と私に仕事を依頼してくれました。朝、親父と一緒に車で事務所まで行き、そこから親父は外回りで事務所を離れ、私は親父のパソコンで印鑑のチラシを作る作業をしていました。当時は今ほどパソコンは普及していなかったので、使い方を覚えるまでに時間がかかりましたが、他に何もすることがない毎日でしたので、ゆっくりと使い方の勉強をして、クオリティはかなり低いものでしたが、何種類かのチラシを作ることができました。そのチラシを親父はとても喜んでくれ、いろんな場所に配ってくれたようです。「お前のおかげで、何件か問い合わせがあったぞ!ありがとう」とアルバイト代までくれました。今考えると、あのチラシで問い合わせがあったとは考えにくく、親父はなんでもいいから私に仕事を与えて自信をつけて元気になってもらおうと、そういう思いで私を事務所に連れて行ってくれたのだと思います。
おかげで少しずつ元気になってきた私は仕事を始めたいという気持ちが出てきて、そのタイミングでまた親父が「俺の事務所の隣がちょうど空いたから、そこで学習塾をやってみないか?」と言ってくれました。自信があったわけではなく、それどころか何から始めればよいのかまったくわからない状態でしたが、ここで動き出さないと俺はもうダメだろうなあという背水の陣で臨みましたので、とにかく無我夢中で頑張りました。塾のチラシは親父の仕事を手伝ったときに練習したので自分で作ることはできましたし、ホワイトボードや本棚などのオフィス家具の一部は高校の友人がわざわざ持ってきてくれました。そしてそれ以外のものはすべて親父が用意してくれたのです。まず教室として使用する部屋の契約に必要な費用、チラシを封筒を印刷する会社の紹介やそれに必要な費用、すべてを出してくれました。そして塾を始めてから経営が安定するまでの約1年間の家賃なども親父が負担してくれました。
塾を始めてからも、隣は親父の事務所ですので会う機会はそれなりに多く、3兄弟の中では私がダントツで多く親父と話をしていると思います。開校してから5年ほど経過し、私が30代前半の頃でしたが、そのときにこれまで親父についてあまり知らなかったことのほとんどを知るようになりました。きっかけは親父が「お金がないから貸してほしい」という私にはかなりショッキングな言葉が発端でした。
ああ、そうだったんだ。考えてみればそうだよな。印鑑って消耗品でもないし、個人で営業して、それほど稼げる仕事ではありませんよね。少し考えればわかったことなのに、考えようとしていなかった。正確には、うすうす感づいていたけれども、あえて知ろうとしなかったのだと思います。一度きちんと話をしなければと、両親といろんなことについて話し合いました。
親父の仕事が、かなり厳しい状況であること。順調な時期はほとんどなく、私と兄の大学受験のときに大きく借金をしたこと。それからもバブルがはじけたこともあり、親父の仕事はずっと下降線をたどり、借金の返済で限界に近いことなど想像以上に事態は深刻でした。
私の仕事の方は、それほど余裕があったわけではありませんが、ある程度順調でしたし、何より親父の借金は遊ぶためにしたわけではなく、私たちの教育費や生活費としてしてくれたものですから、できるかぎりのことはしたいと思いました。少なくても、これまで私にかけてくれた教育費や、塾の立ち上げに必要だった経費などはすべて返していきました。私だけではどうにもならなかったので、弟も協力してくれました。
兄にも相談すると、「俺はこうなることがわかっていたから、早くに家を出たんや。何で俺が親父の借金を返さなあかんねん。そっちで適当にやってくれ」と言われました。それぞれの考え方はあるでしょうが、「誰のおかげで、お前は大学にまで行かせてもらえて、今働けてんねん!誰のために親父は借金したんや!」と私は兄の考えには全く同意できず大喧嘩となり、このことが原因で20年近く経った今でも兄とは仲直りできていません。
暗い話になってすいません。
次回で終わります。
ONE-SのHP
とても長くなってしまいましたが、もう少しお付き合いください。
ひきこもり時代の私に親父はよく「お前、なんかしたい仕事ないか?どんな仕事がいいんや?」と声をかけてくれていました。いくつか知り合いの会社の経営者の方がいたようで、私が希望すればそこにお願いして入れてくれようとしていたみたいです。ですが当時の私はとにかく自信がなく、そういう自信のなさを家族に知られたくないという気持ちから「俺はだれとも関わらない仕事がしたい!だから会社では働かない!」とせっかくの親父の気持ちを無駄にしていました。それでも親父は見捨てずに、「それだったら、俺の仕事を手伝わないか?ちょうど印鑑のチラシを作ってほしかってん」と私に仕事を依頼してくれました。朝、親父と一緒に車で事務所まで行き、そこから親父は外回りで事務所を離れ、私は親父のパソコンで印鑑のチラシを作る作業をしていました。当時は今ほどパソコンは普及していなかったので、使い方を覚えるまでに時間がかかりましたが、他に何もすることがない毎日でしたので、ゆっくりと使い方の勉強をして、クオリティはかなり低いものでしたが、何種類かのチラシを作ることができました。そのチラシを親父はとても喜んでくれ、いろんな場所に配ってくれたようです。「お前のおかげで、何件か問い合わせがあったぞ!ありがとう」とアルバイト代までくれました。今考えると、あのチラシで問い合わせがあったとは考えにくく、親父はなんでもいいから私に仕事を与えて自信をつけて元気になってもらおうと、そういう思いで私を事務所に連れて行ってくれたのだと思います。
おかげで少しずつ元気になってきた私は仕事を始めたいという気持ちが出てきて、そのタイミングでまた親父が「俺の事務所の隣がちょうど空いたから、そこで学習塾をやってみないか?」と言ってくれました。自信があったわけではなく、それどころか何から始めればよいのかまったくわからない状態でしたが、ここで動き出さないと俺はもうダメだろうなあという背水の陣で臨みましたので、とにかく無我夢中で頑張りました。塾のチラシは親父の仕事を手伝ったときに練習したので自分で作ることはできましたし、ホワイトボードや本棚などのオフィス家具の一部は高校の友人がわざわざ持ってきてくれました。そしてそれ以外のものはすべて親父が用意してくれたのです。まず教室として使用する部屋の契約に必要な費用、チラシを封筒を印刷する会社の紹介やそれに必要な費用、すべてを出してくれました。そして塾を始めてから経営が安定するまでの約1年間の家賃なども親父が負担してくれました。
塾を始めてからも、隣は親父の事務所ですので会う機会はそれなりに多く、3兄弟の中では私がダントツで多く親父と話をしていると思います。開校してから5年ほど経過し、私が30代前半の頃でしたが、そのときにこれまで親父についてあまり知らなかったことのほとんどを知るようになりました。きっかけは親父が「お金がないから貸してほしい」という私にはかなりショッキングな言葉が発端でした。
ああ、そうだったんだ。考えてみればそうだよな。印鑑って消耗品でもないし、個人で営業して、それほど稼げる仕事ではありませんよね。少し考えればわかったことなのに、考えようとしていなかった。正確には、うすうす感づいていたけれども、あえて知ろうとしなかったのだと思います。一度きちんと話をしなければと、両親といろんなことについて話し合いました。
親父の仕事が、かなり厳しい状況であること。順調な時期はほとんどなく、私と兄の大学受験のときに大きく借金をしたこと。それからもバブルがはじけたこともあり、親父の仕事はずっと下降線をたどり、借金の返済で限界に近いことなど想像以上に事態は深刻でした。
私の仕事の方は、それほど余裕があったわけではありませんが、ある程度順調でしたし、何より親父の借金は遊ぶためにしたわけではなく、私たちの教育費や生活費としてしてくれたものですから、できるかぎりのことはしたいと思いました。少なくても、これまで私にかけてくれた教育費や、塾の立ち上げに必要だった経費などはすべて返していきました。私だけではどうにもならなかったので、弟も協力してくれました。
兄にも相談すると、「俺はこうなることがわかっていたから、早くに家を出たんや。何で俺が親父の借金を返さなあかんねん。そっちで適当にやってくれ」と言われました。それぞれの考え方はあるでしょうが、「誰のおかげで、お前は大学にまで行かせてもらえて、今働けてんねん!誰のために親父は借金したんや!」と私は兄の考えには全く同意できず大喧嘩となり、このことが原因で20年近く経った今でも兄とは仲直りできていません。
暗い話になってすいません。
次回で終わります。
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