初夏の加計呂麻を行く 拾四よりつづく。
伊子茂(いこも)集落の端から集落内に入ってみた。
山からの水をそのまま流しているであろう細い水路沿いの、これまた細い道である。
県道や国道から、集落内の生活空間へバイクを進めるときは、できるだけ高いギアで、アクセルを絞って走らせることを意識している。
吸排気系ともにどノーマルのDR-250Rは、乗ってる本人からすると静々と進んでいるつもりなのだが、周りから見たらどうなんだろうか?
道が行き止まりになったところに、立派な石垣が見えた。
これはなんだ?
加計呂麻の民家は、とくに古いものは小さい家が多い。
どう見ても父母と、結婚前の子供でいっぱいいっぱいのサイズである。
《核家族》という表現も不当ではないほどに、である。
実際は、集落内のほぼ全員が親戚のようなものであり、親族意識が非常に濃厚なため、都会における核家族という言葉はまったく当てはまらない。
近寄ってみると、石の角と角を合わせ、かなり緻密な造りである。
普通、奄美大島や加計呂麻(かけろま)島で《石垣》といえば、テーブル珊瑚の欠けたのを浜や磯から拾ってきて適当に大きさを合わせて積み上げたものがほとんどである。
隙間があるのは当り前で、むしろその隙間から風を通し、通気と強風による倒壊を防いでいる気配さえある。
さらに近づくと、やはり珊瑚の欠けた物がほとんどを占めている。
なおこれは、石垣の正面に近づくのは気が引けたので、敷地の横にある石垣を撮った画像である。
正面のはもうすこし大きな石を使い、隙間も小さくなるように造られている様子だ。
さらに後ろに回り、石垣の切れたところから敷地内を覗き見ると、補修の跡はあるが、無人の様子である。
もしかして、琉球王朝の地方官である按司(あじ or あんじ)の屋敷だったのだろうか(建物は、建て替えられているだろう)。
シロートがひとりで考えても答えなど出るわけもないし、謎は謎として宙吊りにしておくのも先々の楽しみのひとつである。
伊子茂(いこも)集落の端から集落内に入ってみた。
山からの水をそのまま流しているであろう細い水路沿いの、これまた細い道である。
県道や国道から、集落内の生活空間へバイクを進めるときは、できるだけ高いギアで、アクセルを絞って走らせることを意識している。
吸排気系ともにどノーマルのDR-250Rは、乗ってる本人からすると静々と進んでいるつもりなのだが、周りから見たらどうなんだろうか?
道が行き止まりになったところに、立派な石垣が見えた。
これはなんだ?
加計呂麻の民家は、とくに古いものは小さい家が多い。
どう見ても父母と、結婚前の子供でいっぱいいっぱいのサイズである。
《核家族》という表現も不当ではないほどに、である。
実際は、集落内のほぼ全員が親戚のようなものであり、親族意識が非常に濃厚なため、都会における核家族という言葉はまったく当てはまらない。
奄美地方でよくきく言葉のひとつに「ふたいとこ」(辞書などでは「またいとこ」であるが、奄美ではこの表現は使われない)というのがある。祖父母の兄弟の孫のことで、6親等に当たる。6親等は、民法上の親族の定義の限界であるが、奄美ではこの「ふたいとこ」からさらに、「その嫁の母親の妹の…」と続き、要するにそれは「昨日あんたが会った人は、ボクとは親戚で小さい頃からよく知ってるんだよ」という意味なのだが、慣れない側は「えーと、6親等の8親等の…よく判らないけど、法律上はアカの他人じゃないか!」と叫ぶことになる。以上、閑話休題。そんな社会において、この長大な石垣は、あえて言えば「異質」な感覚である。
近寄ってみると、石の角と角を合わせ、かなり緻密な造りである。
普通、奄美大島や加計呂麻(かけろま)島で《石垣》といえば、テーブル珊瑚の欠けたのを浜や磯から拾ってきて適当に大きさを合わせて積み上げたものがほとんどである。
隙間があるのは当り前で、むしろその隙間から風を通し、通気と強風による倒壊を防いでいる気配さえある。
さらに近づくと、やはり珊瑚の欠けた物がほとんどを占めている。
なおこれは、石垣の正面に近づくのは気が引けたので、敷地の横にある石垣を撮った画像である。
正面のはもうすこし大きな石を使い、隙間も小さくなるように造られている様子だ。
さらに後ろに回り、石垣の切れたところから敷地内を覗き見ると、補修の跡はあるが、無人の様子である。
もしかして、琉球王朝の地方官である按司(あじ or あんじ)の屋敷だったのだろうか(建物は、建て替えられているだろう)。
シロートがひとりで考えても答えなど出るわけもないし、謎は謎として宙吊りにしておくのも先々の楽しみのひとつである。
つづく