バイト先の若い人に誘われて、おてまえをいただくことになった。
生まれてはじめて、のことである。
キョーミシンシンてやつである。
正式な会ではなくて流派の同好会みたいなもので、集まって軽くおさらいをするのに
「人数が少ないと気分が出ないから、興味がある人、誰でも来てね」てことらしい。
ついでに、「興味があったら仲間に入りませんか?」つー趣旨も含むらしい。よーわからんが。
中世の日本における茶道というものを、むりやり現代の日本に置き換えれば、カラオケである。
非日常的な空間に身を置いて、日常的な自分とは違う存在になりきるのだ。
一種のお芝居といっていい。
そーゆーのは、オレは得意である。
いちおー、元演出家だしな。
つーわけで、日本独自の文化である茶道について、堂々たる付け焼刃で詳しく説明してあげるので、
その方面に疎い方は、できるだけ有難がって読むように。
まずはじめに、茶の席において、主(あるじ)と客の関係性は絶対であり、入れ替わることなどありえない。
お芝居の中で、二つの役柄が入れ替わらないのと同じだ。
客の中でもメインの客とその他の客は、固定された役割を演じることとなる。
茶道は、その成立において禅の影響を強く受けたとされる。
ほぼ同じ時期に能が成立したのだが、こちらも禅の影響が濃いのだという。
そして能の場合、シテとワキと呼ばれる主役とその共演者がストーリーを展開させるのだが、こちらの関係性も絶対的である。
テクノロジーの進歩は、あらゆる分野に及んでいる。
写真では判らないが、電熱線の周囲には炭の模型が「流派の正しい置き方」で配置されているのだという。
本式の茶会では、組み立て式の囲炉裏セットを使うのだという。これか?
掛け軸、生け花は、不可欠なセット。
「茶道」というのは、実際にお茶をいただくよりもずーっと前からはじまっているのだ。
「茶室」という空間に至るまでの経路も含めて、カラオケならばイントロだと思えばいい。
茶室に入ってからも、芝居ッ気たっぷりの手順は続く。
客は掛け軸や花を見て「誰の作品なの?」とか「なんでこれを飾ったの?」と聞かなくてはならない。
「かくかくしかじかでゴザイマス」と答えることになる。
つまり、そういうやりとりを成立させるために掛け軸と生け花が必要なのだ。
これは、観客無しのお芝居ではないか。
畳の縁から八寸の位置に膝が来るように座る。
この位置関係について「茶道は戦国時代に発達したもので、床下から敵が・・・」なんつー説明をいただいたのだが、
畳の縁を舞台のツラ(端)と見立てれば、「ぎりぎり前の美しい位置」であることは一目瞭然だ。
主(あるじ)は茶を点(た)て、客に供し、聞かれたことについて短く答える。
決して、「秋田の事件は…」とか「ポスト小泉ってアンタ、郵便局を減らそうってのはアノひとでしょ。ポストの話が多い人だねまったく」とか言ってはイケナイのである。
抹茶そのものは、器の底にちょこっとあるだけだし、混ぜたり廻したりですっかり醒めちゃってるかと思ったのだが、意外と温度が高い。
自分が飲み終えたら茶碗を、全員の客が飲み終えたら茶器(茶の容器と抹茶の粉を移すための柄杓)をしげしげと眺めて
「銘は?(アナタはこれにどんな名前を付けてるの?)」とか「作は?(誰が作ったの?)」とか質問する。
主(あるじ)はそれに対してもっともらしく答えるのだが、これなんかカラオケで珍しい曲を歌ったヤツに
「ねぇねぇ、それって誰の曲?」とか聞くようなものである。
400年経っても、ニンゲンは同じようなことやってんだなぁ、と思うと楽しくなってくる。
もちろん、これも手順であって、たとえそれが避けられない現実であったとしても
「そこらにあったものです」とか「さっきダイソーでね」というのは許されないんである。
茶道は、その初期において、戦国大名のほかに富裕な商人によって支持された。
当時の日本には焼き物(磁器)といえば全て輸入品であり、つまり、茶碗というのはインポートのブランド品であった。
秀吉の朝鮮出兵の際に、参戦した大名たちが朝鮮半島から陶工たちを拉致してきて、ようやく日本でも磁器の製造がはじまった。
ついでだからさらに続けると、明治維新を推進した薩長土肥のうち、薩摩と肥前は密貿易で上げた利益を武器購入に充てた(もちろん、薩摩藩は奄美大島からの砂糖生産でも大きな利益を上げた)。
もちろん、この密貿易では武器購入の原資たる外貨の獲得がメインだったことは間違いないのだが、
積荷の隅っこに景徳鎮あたりの磁器がひっそりと載せられていても不思議ではない。
奄美大島でおてまえをいただくと、いろいろ想像してしまうのだ。
生まれてはじめて、のことである。
キョーミシンシンてやつである。
正式な会ではなくて流派の同好会みたいなもので、集まって軽くおさらいをするのに
「人数が少ないと気分が出ないから、興味がある人、誰でも来てね」てことらしい。
ついでに、「興味があったら仲間に入りませんか?」つー趣旨も含むらしい。よーわからんが。
中世の日本における茶道というものを、むりやり現代の日本に置き換えれば、カラオケである。
非日常的な空間に身を置いて、日常的な自分とは違う存在になりきるのだ。
一種のお芝居といっていい。
そーゆーのは、オレは得意である。
いちおー、元演出家だしな。
つーわけで、日本独自の文化である茶道について、堂々たる付け焼刃で詳しく説明してあげるので、
その方面に疎い方は、できるだけ有難がって読むように。
まずはじめに、茶の席において、主(あるじ)と客の関係性は絶対であり、入れ替わることなどありえない。
お芝居の中で、二つの役柄が入れ替わらないのと同じだ。
客の中でもメインの客とその他の客は、固定された役割を演じることとなる。
茶道は、その成立において禅の影響を強く受けたとされる。
ほぼ同じ時期に能が成立したのだが、こちらも禅の影響が濃いのだという。
そして能の場合、シテとワキと呼ばれる主役とその共演者がストーリーを展開させるのだが、こちらの関係性も絶対的である。
テクノロジーの進歩は、あらゆる分野に及んでいる。
写真では判らないが、電熱線の周囲には炭の模型が「流派の正しい置き方」で配置されているのだという。
本式の茶会では、組み立て式の囲炉裏セットを使うのだという。これか?
掛け軸、生け花は、不可欠なセット。
「茶道」というのは、実際にお茶をいただくよりもずーっと前からはじまっているのだ。
「茶室」という空間に至るまでの経路も含めて、カラオケならばイントロだと思えばいい。
茶室に入ってからも、芝居ッ気たっぷりの手順は続く。
客は掛け軸や花を見て「誰の作品なの?」とか「なんでこれを飾ったの?」と聞かなくてはならない。
そういう質問をした方が失礼に当らないというエチケットと思えばいい。主(あるじ)の側も、たとえそれが事実でも「これしかないから」なんて答えずに、
「かくかくしかじかでゴザイマス」と答えることになる。
つまり、そういうやりとりを成立させるために掛け軸と生け花が必要なのだ。
これは、観客無しのお芝居ではないか。
畳の縁から八寸の位置に膝が来るように座る。
この位置関係について「茶道は戦国時代に発達したもので、床下から敵が・・・」なんつー説明をいただいたのだが、
畳の縁を舞台のツラ(端)と見立てれば、「ぎりぎり前の美しい位置」であることは一目瞭然だ。
主(あるじ)は茶を点(た)て、客に供し、聞かれたことについて短く答える。
決して、「秋田の事件は…」とか「ポスト小泉ってアンタ、郵便局を減らそうってのはアノひとでしょ。ポストの話が多い人だねまったく」とか言ってはイケナイのである。
抹茶そのものは、器の底にちょこっとあるだけだし、混ぜたり廻したりですっかり醒めちゃってるかと思ったのだが、意外と温度が高い。
自分が飲み終えたら茶碗を、全員の客が飲み終えたら茶器(茶の容器と抹茶の粉を移すための柄杓)をしげしげと眺めて
「銘は?(アナタはこれにどんな名前を付けてるの?)」とか「作は?(誰が作ったの?)」とか質問する。
主(あるじ)はそれに対してもっともらしく答えるのだが、これなんかカラオケで珍しい曲を歌ったヤツに
「ねぇねぇ、それって誰の曲?」とか聞くようなものである。
400年経っても、ニンゲンは同じようなことやってんだなぁ、と思うと楽しくなってくる。
もちろん、これも手順であって、たとえそれが避けられない現実であったとしても
「そこらにあったものです」とか「さっきダイソーでね」というのは許されないんである。
茶道は、その初期において、戦国大名のほかに富裕な商人によって支持された。
当時の日本には焼き物(磁器)といえば全て輸入品であり、つまり、茶碗というのはインポートのブランド品であった。
秀吉の朝鮮出兵の際に、参戦した大名たちが朝鮮半島から陶工たちを拉致してきて、ようやく日本でも磁器の製造がはじまった。
拉致された陶工たちに対する待遇は悪くなかったようで、彼らは朝鮮から家族を呼び寄せていたという。とはいえ、磁器の輸入に莫大な金銭が用いられたことは確かなようで、徳川幕府の鎖国も、この辺が原因の一部だとも思われる。
話の展開がこうなると、うかつにギャグを入れられないな
ついでだからさらに続けると、明治維新を推進した薩長土肥のうち、薩摩と肥前は密貿易で上げた利益を武器購入に充てた(もちろん、薩摩藩は奄美大島からの砂糖生産でも大きな利益を上げた)。
もちろん、この密貿易では武器購入の原資たる外貨の獲得がメインだったことは間違いないのだが、
積荷の隅っこに景徳鎮あたりの磁器がひっそりと載せられていても不思議ではない。
奄美大島でおてまえをいただくと、いろいろ想像してしまうのだ。