ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

法と役職

2009-08-01 15:49:01 | 野根山街道物語
 元治元年の安芸郡志士による野根山屯集事件の際、藩の軍監として討伐隊を率いて、鎮圧斬罪をした小笠原唯八(タダハチ)の写真です。

 彼も維新の大波に呑まれ揺られていたのです。

 明治44年7月22日に史談会の席上での板垣退助の談話があります。

 容堂の側物頭で小笠原唯八というものがいるが、私も知己として相許した仲であったが、私や小笠原が役人であったという理由で吉田東洋の側の人間であったとされるが、そうではない。
 武市派の50人ほどが容堂に謁見を願い出た時も「生首を持参して主君を脅迫したり、意見が入れられないと脱藩する旨を藩主に対して迫るとは、不埒千万。といった。実に快男子であった。

 野根山屯集の際にも、武市半平太の赦免を哀訴するというので、武器を携えて野根山に立てこもったので、これは不埒だということだった。兵をひきいて取り押さえ、藩主の命令で23人の首を奈半利川原で切ってしまった。それが理由で小笠原は未だに賞されることが出来ない。

 さらに、江藤新平と共に江戸の南・北町奉行の役をしていたとき、自分は板垣と生死を共にと誓っているのに、板垣は戦場に出ている。こんな仕事はいやだとして、町奉行はやめて、改めて官軍の軍監になったのである。こんな意気盛んな人物であった。

 小笠原も23士も共に靖国神社に祀られている。

 板垣退助は小笠原唯八を絶賛しているように見えるのです。

 明治新政府の大総督御用掛に就任し、さらに政府軍監となり上野戦争や東北諸藩との戦いにおいて活躍するが、1868年(慶応4年)会津戦争で弟と共に戦死しているのです。
 会津城攻めにおいて部下の士気を高めるためによさこい節を歌ったといわれています。40歳でした。
 
 後の研究でも、小笠原唯八の野根山出張日記の23士処刑当日の筆跡は大きく乱れて、当事者としての苦悶がしのばれていた。そうな。

 佐幕派とか勤皇派といったことではなく、体制の中で翻弄された一人の官吏の姿が見て取れるような気がします。 法を守るべき役職であっただけなのです。
 哀しいかな、そうした時代だったのです。

 

 

幕末の女性

2009-08-01 14:34:04 | 野根山街道物語
 名前を清岡静。
 幕末、元治元年(1864年)野根山街道岩佐の関所で安芸郡の志士23人を集めて、武市瑞山以下の解放をもとめて屯集した首領・清岡道之助の妻です。

 男達は自らの意思を持って、命を懸けて時代を生きていたときも、女達はひたすら家を守り、子を育てて次の世に系譜を繋いできたのです。
 夫が勤皇運動に熱中しており、さらに前年北川郷大庄屋中岡慎太郎が脱藩して、中央で運動に邁進していることは聞いていたことでしょう。さらに土佐勤皇党の武市以下が捕縛されてから頻繁に郎党と集って相談していることも当然知っていたのでしょう。

 身支度を整え、出てゆく夫に「この子供(邦之助)は、どうしたらよございますか」と問うと、道之助は血相を変えて「こちへおこせ」と立ち上がったのです。そのとき庭にいた下男助平が座に上がり主人の腕を押さえたのです。夫の意思を確認した妻静は子供を抱きしめて奥へ走ったと伝えられています。やがて、一人でその座に帰り頭を下げて「私が悪うございました。」とあやまり、出てゆく夫の姿が見えなくなるまで、家の門口で立ち尽くしていたそうな。

 2人が次に会うのは岡地の獄舎に入れられた時とされています。
 「どうも処刑されるらしい。覚悟せよ。証拠書類は全部焼き捨てるがよかろう。」
 「かねてから、覚悟はしています。余罪の及ばぬよう既にすべてのものは処分してあります。」
 2人の会話は短いものであったでしょう。気丈な彼女も夫の心情を思い、ひたすら子を抱き続けるしかなかったそうな。

 更なる道之助と妻の伝説は処刑された夫の首を抱き、髪を整えて杓子の柄で胴体と継ぎ合わせて埋葬したとの逸話です。道之助の首は首謀者として高知で3日間さらされていたのです。この時眉毛一つ動かさなかったといわれています。命がけの活動をする夫とその後始末をする妻の姿です。

 残された静さんは邦之助を立派に育て上げるのです。邦之助は学問に打ち込んで、慶応義塾に入ります。後年慶応義塾の創業者福沢諭吉の三女しゅん(俊)と結婚。キャリア官僚となり、中央財界で活躍することになります。さらにその子静の孫になる瑛一は慶応大学教授となり、ハワイ大学と慶応義塾大学との交流に貢献したとの資料があります。

 いま田野町福田寺にある二三士の墓は彼女が私財を投じて修築したもので、その命日には祭祀を怠らなかったそうですよ。

 偉い人です。

 彼女は大正2年11月21日 72年の生涯を終えたそうですよ。