ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

山へ向かう。

2009-08-22 21:37:34 | 野根山街道物語
 多くの物語の舞台となった野根山街道に来週の日曜日、そう選挙に日に行くことになりました。もちろん事前に投票には行きますよ。

 今から楽しみにしているのですが、何分久しぶりのことで、それを聞きつけた友人が「おい、大丈夫か??」「本当に行くがか。」心配してくれました。

 メタボ最前線ですからねえ。「へいきよね。」と言ってみたものの、今になって少し心配になってきた。

 当初の目的。写真がほしいってのは、もう手に入ってしまったし、どうしても行かなければならない理由など無くなってしまったんです。

 さてどうするか。ここが判断の分かれ道です。
 「行くべきか、行かざるべきか。」
 もし行って、ひっくり返りデモしたら、「それ見たことか。」てなことになりますしねえ。

 ハムレットみたいな心境です。

 あと10KG体重を落とさないとねえ。しんどいと思うんですが、ま、いいか。

 なんとかなるでしょ。
 写真にあるように、いいところですからね。
 今回は、13KMほどのハイキングです。

土佐勤皇党の父。

2009-08-22 00:55:53 | 昔話
 今日は安田町の岡本寧浦について書こうかなと思っていたのですが、どうもいけません。なにやらどんどん広がって仕方がないのです。そのうえ同郷の高松小埜とのかかわりに気が行ってしまい、どうにもまとまらないのです。さてどうするか。
 とりあえず、今日出来る範囲で書いてみようと思います。
 最後まで行き着くのかわかりませんが、行ってみましょう。
 多分まとまらないだろうけどね。

 岡本寧浦。安田町指月山乗光寺第5世弁翁の子。後の世に曰く「土佐勤皇党の父。」なのです。
 彼は、名を退蔵、寛政6年生まれです。
 お寺の後継者なのですが、才を認めた父親が彼が6歳の折に寺務から解放するのです。「学にて身をたてよ。」だったのです。
 先ずは本山,西本願寺西六条の僧寮に入り基礎仏典を研究することから始めます。
 それから、彼の人生の中で命をかける程のかかわりが出てくる人たちに出会うのですが、そこからさらに広がってゆくのです。
 このままでは終わりそうもないので、一回目の途中下車をする事にします。

 下りる場所は広島県です。
 本山での研究に飽き足りなくなった彼は、安芸の国(広島県)の石泉僧叡和上の門を叩きます。この和上、実に寧浦に似ているのです。ちがう。和上に寧浦がよく似ているのです。寺の住職なのですが、寺務よりは学問が大好きで、若者達に教えるのが大好きなのです。石泉の門下から後の世に勧学(本願寺の宗学最高の位)が5人もでているのです。ゆえに石泉の門下を後の世に「石泉学派」とよび、浄土真宗本願寺派では「空華学派」と並んで「二大潮流」と呼ぶことになるほどなのです。
 
 そうしたところに寧浦は入ってゆくのですが、その石泉門下では、円識と共に「ニ傑」と称されるようになるのです。

 ここからです。その円識の弟子に宇都宮黙霖という人がいます。
 彼は国学研究によって勤皇論を唱え始め、40数カ国を渡り歩くのです。
 安政2年、萩に来て吉田松陰の書を読み感動をして、既に獄に繋がれていた松陰に書を送って影響を与えたとされています。
 安政の大獄の際にも捕縛されましたが、僧形により釈放されたとか棺桶に入って脱出したとかと諸説があります。

 後の世、明治新政府の総理大臣伊藤博文が「先生、先生」と呼んで追い回したとされています。

 さて、寧浦は土佐の高知で結婚をして、高知新町に私塾「紅友社」を開き門人千人を越えたといわれているのです。門人に間崎滄浪・清岡道之助や河田小竜・・・ときりがないほどです。
 結婚した相手は安芸市の医師小野敬蔵の娘とき。さらにその妹みねは岩崎弥太郎の母になるのですから、歴史をさかのぼると「面白い」ですね。もちろん寧浦は成長した弥太郎を連れ歩くことになるのですが、長くなるのでもう止めます。

 できれば、早い機会に岡本寧浦を書きたいですね。面白すぎて困ったなあ。
 高松小埜や中岡慎太郎もね。みんな偉いよね。
 彼らが今生きていたらなんと言うだろうね。
 考えるダニ恐ろしい。そう思う。
 やっぱりまとまりがつかなかった。残念。