ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

年・2回

2009-08-15 10:21:35 | 田舎の理屈
 夏休みのお盆の時期と、正月。年に2回、田舎がにぎやかになります。
 子供たちの声が聞こえてきたり、若者が闊歩しています。普段にはないことですから何かしら楽しくなるのですが、どうも落ち着きません。

 いつもは「若い人がおらんきねえ。」が合言葉ですが、来たらきたで「忙しいねえ。」でも顔は笑っているのです。

 昨日も困ったことがありました。目の前に県外ナンバーの車に駐車されて「何だこれは!!」と思ったのですが、何もいいませんでした。
 どうせ、いなくなるのですから。

 それに、昨日スニーカーを履いて、地図を片手に歩いている方がおりました。
 地元の帰省客でしたよ。今は東京だそうですが、改めてふるさと再発見といった感じでした。うれしいことです。
 たまに帰ってきた田舎。家でごろごろしないで外へ出て、歩いていたのです。

 田舎のサービスが悪いって、聞いたことがありますが、いつもは5~6人しか来ない店に30人も押しかけると、きりきり舞いのパニックですねえ。

 悪くなるのは仕方がないね。弁解かな。工夫で切り抜けよう。

 生活のサイクルが変わります。テレビではすでにリターンのニュースが流れています。また田舎は静かになりますが、寂しいわけではありません。
 元の生活に戻るのです。
 セミの声がうるさいねえ。

戦争で生きた男

2009-08-15 00:08:23 | 昔話
 今日は、板垣退助を書いてみようと思うんですが、彼の資料が多すぎるものですから、想像して楽しめる部分が少なく面白くないので、3つ~4つのエピソードでつないでみようと思います。イメージを膨らませてください。
 どんな「人」だったのかをです。

 そう、年齢からいえば、天保8年生まれですから丁度坂本龍馬と中岡慎太郎の間といったところですね。明治の時代に自由民権運動の指導者として有名ですね。
 「板垣死ストモ、自由は死せず」という言葉は有名です。
 彼の生まれた乾家は藩の中では220石取りの馬廻り役、上士で高級官僚候補といったところですね。

 中岡慎太郎が郷里の有力同士に手紙を送っています。「乾(板垣)退助を何卒殺サヌ様・・ 」戊辰戦争が始まろうとした時、土佐藩の武力倒幕推進役として東征軍迅衝大隊司令に起用されるまで、守旧派から守ってほしいとの依頼だったのです。
 結果として武市半平太の党派も戊辰戦争では、乾退助の指揮を受けることになったそうな。


 西郷隆盛は明治新政府の太政官で板垣退助にこのように言ったという。
 「板垣さんは、恐ろしい人よ。俺のところへ浪士を担ぎこんで戦争をおっぱじめさせた。恐ろしい人よ。」

 さらに「戊辰戦争で死んだ人はたくさんあるが、この戦争で生きたのは板垣さんだけだろう。」

 板垣から浪士を預けられた西郷は、彼らを使って随分危険なことをやったようですが、互いの役割分担を意識しての発言だったようです。


 昭和11年(1936年)11月7日に落成した現在の国会議事堂中央玄関から入ると広間があり、ここに板垣退助・大隈重信・伊藤博文の銅像が立っています。
 3人のうち板垣退助は帝国議会に一度も議席を持ったことがなかったのに、ここに飾られているのです。
 「歴史がもたらした議席」と言われています。
 確かに明治23年に天皇の内意で「板垣退助を貴族院議員」に勅選(終身議員)としようとしたのですが、辞退をしているのです。

 彼もまた幕末から明治の動乱期、与えられた役割を、彼にしか出来ない方法で仕事としてやり遂げた一人だったと思います。

 随分と前のこと、国会議事堂に見学に行った時、聞いたことがあるのです。
 「4隅の部屋に3体の銅像。4体目の予定はどうでしょう?」
 うまいお答えを頂きました。「これからの方でしょう。」期待したいですね。

 いつの日か彼の銅像について書いてみたいですね。あちこちにあるのです。
 それなりの理由があるのです。板垣退助の銅像。
 そう100円札。紙幣にもなりましたね。

 若い方々は既にご縁がないのかも知れませんがね。高知の先輩はすごいのです。