ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

慶応義塾大学//研究室合宿

2009-08-05 23:15:50 | Vision East
 大学のゼミの学生が2泊3日で奈半利町に来ています。
 今日は仲間と共に、あちこちご案内をいたしました。
 私の担当は、製糸工場の内部の案内です。
少し勘違いをして、間違った説明をしてしまったかもしれません。
 失敗失敗。

 20人以上の学生が来ているのです。
 奈半利町の執行部とも談義を重ねていくのです。
今後の町の活性化施策に繫げる提言をしてくださるのだそうです。

 よきかなよきかな。
 早稲田大学の方々が今回同様赤岡町に来ていたことがあります。今はどうかな。
 なかなか密度濃い調査研究を展開をしておりましたし、高知大学の限界集落を提唱していた名物教授も随分とお見えになっていただきました。

 今回の若者がどの様な視点で、わが町を捌いてくれるか、期待しています。
 気になることが1つ。「地域情報化」という言葉です。地域情報を只出すだけでは、対応力に不足が出た際、かえってマイナスになることが多いからです。
 かつて、瀬戸大橋が開通したとき、「高知へいらっしゃい」キャンペーンを張りました。そして、一部の観光客は寝るところもなく車で寝たり・・・。
 たくさんの苦情をいただきました。何をどの様な形・方法で、情報をどの方面にどのくらいの時期に流すか。大切な問題です。いい勉強が出来るでしょう。
 出来れば5年ぐらいは連続して関係を持っていただけると面白いんですがね。

 随分と以前に、高知県の政策総合研究所が出来たとき、三菱総研の指導で事業を展開したのですが、すばらしいレポートはいただきました。しかしながら結果としては、政策として反映することも出来ず、組織は解散となりました。結果を出す必要はあろうかと思いますが、急ぐことはないと考えています。
 私は、すぐに結果が出るいいレポートを求めているわけではなく、いまから何が出来るのかといった手がかりがほしいのですから。
情報発信は手段で、目的ではないのです。
 まずどんな地域になるのか、志向するのか、目的をはっきり認識する必要があるのです。

 あさって報告会があります。聴きにいきましょう。


徳島県がない!!。

2009-08-05 20:50:52 | 昔話
 地図を見ると徳島県がないではないか。え!!。浅学を恥じ入るばかり。

 本当かな?。

 確認しました。本当でした。
 知らなかったのは、もしかして私だけ??。まあ仕方なし。

 知らない仲間同士にお知らせです。
 明治維新が日本を変えてしまったとき、大きな変化が全国で起こっていたのです。高知は原則的に勝ち組だったので問題はなかったのですが、大変だったのは徳島県です。

 明治2年7月1日  版籍奉還
           殿様がいなくなって藩主が知藩事となりました。
 明治4年7月14日 廃藩置県
           旧藩主は東京移住を強制されます。
           しかし藩がそのまま県になっただけだったことから300
以上の県が発足していたのです。これから激しい制度変更がありました。
 明治9年8月21日 制度変更、淡路は兵庫県に阿波は高知県に編入されてしまったのです。
           この時香川県も愛媛県に編入されたんです。
           なんで??。どうも、戊辰戦争のときに官軍側に積極的に協力しなかったからだとされているんです。

 でどうなったか。
高知県になった徳島には旧県庁舎に高知県徳島支庁が設置されたのですが、各種行政事務が停滞し、不満が続出したようです。明治12年に県議会が開設されても、高知県と徳島の間の陸上交通は難所ばかりといった状態で、県議会取材の記者が出張に5日かかったとか。どちらからも一旦大阪に出たほうが早かったそうな。
 さらに、県会議員の定数が高知県側より徳島の議員のほうが多かったことで議会運営に困惑したとの記録があるほどです。ちなみに議長は高知の片岡健吉、副議長は阿波の磯部為吉でした。
 県令は伊藤博文内務卿に分離を建議したそうな。
 この時期高知県では自由民権運動が高揚し始めていたのは、おもしろい。

 明治13年3月(1880年)徳島県が再置されたのです。
 そう4年ほど、徳島県は地図から消えていたことになります。

 いまでも、高知県と徳島県の間は道が悪いのです。最も時間がかかります。
 悪いのは政治か、経済か・・・・。
 シラナカッタ。恥ずかしい。