ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

ありよう。

2009-08-23 23:21:49 | 日記
 今日は来月13日に、高知から奈半利を見学にお見えになる方々が、最終打ち合わせ、確認作業に来られました。

 彼らは、今、現にあるものを説明しようとしています。ただ残念ながら何でそのようになったのかということは考えていない様に思うのです。

 ナンデの繰り返しは、浅学の身には苦痛でしかなかったのですが、そんなことが重要ですか??。議論が出来ない立場には、ひたすら我慢するしかないのです。

 これは何でこのような名前がついているのですか??。
 困ったね。なんであなたはふくろう親父。なのですかといわれても困るねえ。

 私は父と母がいて、生まれてきました。それを、説明しないといけないことなのだろうか。困るねえ。

 彼らは何を望んでここに来るのだろうか、只珍しいものを探してここに来ているだけだとしたら、一度来ればそれで良いのです。

 ここにはここでしか味わえない生活文化があるのですが、それは珍しくもない。ただ、ここでは普通のことなのです。しかしながら、私達には大事なことなのです。

 改めて今日それが確認できて、うれしい。そう思いました。

 ここでは、ここの自然と共に、ここに住む私達は、それに沿って生きてゆくことが良いのだし、無理がないと思っているのです。

 ここの生活のありようは、ここの場所だからこそなのです。

 「何で・何で・・・」。困った「ちゃん」ですね。

お爺ちゃんでしょうかね。

2009-08-23 01:19:47 | 高知県東部人物列伝
 土佐勤皇党の父が、岡本寧浦ならば、養父は高松小埜だといわれています。
 誰も言わないけれど、お爺ちゃんがいるのです。

 名前は宮田定則。昔々の話ですが、凄いおじいちゃんです。

 宮田定則が生まれたのは、延宝3年といいますから西暦では1675年でしょうか。後の岡本寧浦と比べると100年以上前のお爺ちゃんです。
 そして彼が生まれたのは、安田浦の名高い医師、宮谷玄琢の家です。

 彼は若年より教師役の父・玄琢に才能を見せ付けます。そして当時学問の中心地である京都への遊学を16歳のときに父に認めさせるのです。
 父は多くは言わなかったそうです。ただ「最後までやり続けるのだ。」

 京都では医学の大家といわれた方々について医学を修めたものの、さらに彼は土佐藩士関牧庵の紹介で儒者浅見絅斎に入門します。彼は医学をそっちのけにして10年以上に亘って懸命に朱子学を研究することになります。また彼は性格は淡々としていて、物事にこだわらず、酒をたしなみ、議論が卓抜で時々人の意表を突くことがあったそうな。

 ただ、師絅斎が門下生に易経を講義していたときに、酒に酔って席についたもので、酒くさい彼を嫌って同席の仲間が抗議したことから、講義が中断したこともあったそうな。

 そうしたことが原因の一つでしょうか、彼は土佐に帰ることになります。

 土佐に帰ると安芸の五藤の殿様は客分の師として彼を迎え、さらに70歳になった折に、藩の儒官になります。また勤めの傍ら廿代町の自宅で好学の子弟を集めて、得意の四書、近思録(朱子学の要約)の講義を行っています。

 宮田定則は、安田浦の医師の子でしたが、学問によって格式のやかましい時代に上士格になったのは破格の栄誉だといわれたのです。

 やりゃア、酒でつまずいても、仕事を与えられると、ちゃんとやる。
 一般的な評価は高いのです。
 宝暦3年に没しているのですが、中央での評価も「酒におぼれなければ、日本的な大学者となっていただろう。」と言うのです。
 さらに、かの谷秦山曰く「高知城下の士人は、定則のおかげで人倫の大道をわきまえるようになったのだ。もし彼が居なければ皆は盲人に等しかったのだ。」

 安田浦の土佐勤皇党のお爺ちゃんは、お酒に少しだらしなかったのですが、学問の種は確かにまいてくれたのです。

 宮谷玄琢の子に宮田用蔵定則なる名前を付けたのは、京都の儒学者浅見絅斎(アサイケイサイ)で、佐伝という書物にある劉子の語をとって、なずけたとされています。
 いかにもと思わせてくれる、逸話です。
 
 こんな爺ちゃんが中芸の安田で生まれて、高知でかつて生きていたのです。

 土佐のいごっそうというか、いかにもそれらしい話でした。