現在の岩佐の関所跡の写真です。
野根山街道のほぼ真ん中に位置しているところに岩佐の関所があります。
東海道のかの有名な箱根の関所では、重点項目は「入り鉄砲に出女」と言われたそうです。
岩佐の関所は、いったいどんな場所だったんでしょうか。東海道は第1級の主要街道ですが、野根山街道は土佐の3大関所とはいえ、普段からそれほどに通行量があったようではないのです。もちろん官道ですから参勤交代も通りますし、幕府の巡検使も通ります。さらに公的な通信のための飛脚も通行しますが、毎日といった頻度ではなかったでしょう。また一般の住民がちょっと観光へといった時代でもないのです。さらに物資の輸送については海上運送が整備されておりましたから、これもそれほど多くはなかったはずです。遍路道は海岸線を行き来していたはずですから野根山街道に立ち入ることはなかったのです。
主として外来者の検問、藩内の住民の脱出防止の役割を果たしていたのです。
ここに関所が設けられたのは江戸時代の当初山内家による領国整備が進むにつれて設けられたのです。
番士は木下氏(15人扶持28石8斗)を番所長に、川島・久武・岩崎・北川(各5人扶持8石8斗)の5人の士分を駐留させたのです。東部の重要拠点として考えられていたのが解ります。
元禄地検帳には、「岩佐村新田10石15戸76人」とあります。あの山の中にそんな大人数が生活をしていたのかと思います。
かの土御門上皇が暑いさなか喉を潤したとされる岩佐の清水もこの近くですし、巡検使の災難も幕末の野根山屯集事件もここが舞台でした。
小さな事件をひらい出せばきりがないのでしょうが、たくさんの物語の舞台となったことでしょう。
そして明治3年(1870年)10月岩佐の関所が廃止となり、明治30年をすぎた頃海岸沿いに県道が開通したことで野根山街道の歴史は表舞台から消えることになったのです。
最近では、ハイキングコースとして、地域の内外から訪れるハイカーに「楽しむ場所」として利用されています。
もちろん関所に番士はいません。
野根山街道のほぼ真ん中に位置しているところに岩佐の関所があります。
東海道のかの有名な箱根の関所では、重点項目は「入り鉄砲に出女」と言われたそうです。
岩佐の関所は、いったいどんな場所だったんでしょうか。東海道は第1級の主要街道ですが、野根山街道は土佐の3大関所とはいえ、普段からそれほどに通行量があったようではないのです。もちろん官道ですから参勤交代も通りますし、幕府の巡検使も通ります。さらに公的な通信のための飛脚も通行しますが、毎日といった頻度ではなかったでしょう。また一般の住民がちょっと観光へといった時代でもないのです。さらに物資の輸送については海上運送が整備されておりましたから、これもそれほど多くはなかったはずです。遍路道は海岸線を行き来していたはずですから野根山街道に立ち入ることはなかったのです。
主として外来者の検問、藩内の住民の脱出防止の役割を果たしていたのです。
ここに関所が設けられたのは江戸時代の当初山内家による領国整備が進むにつれて設けられたのです。
番士は木下氏(15人扶持28石8斗)を番所長に、川島・久武・岩崎・北川(各5人扶持8石8斗)の5人の士分を駐留させたのです。東部の重要拠点として考えられていたのが解ります。
元禄地検帳には、「岩佐村新田10石15戸76人」とあります。あの山の中にそんな大人数が生活をしていたのかと思います。
かの土御門上皇が暑いさなか喉を潤したとされる岩佐の清水もこの近くですし、巡検使の災難も幕末の野根山屯集事件もここが舞台でした。
小さな事件をひらい出せばきりがないのでしょうが、たくさんの物語の舞台となったことでしょう。
そして明治3年(1870年)10月岩佐の関所が廃止となり、明治30年をすぎた頃海岸沿いに県道が開通したことで野根山街道の歴史は表舞台から消えることになったのです。
最近では、ハイキングコースとして、地域の内外から訪れるハイカーに「楽しむ場所」として利用されています。
もちろん関所に番士はいません。