ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

高松順蔵

2009-08-27 17:12:27 | 高知県東部人物列伝
 文化4年(1807)生まれで、安田浦の郷士高松益之丞の長男として生まれるのです。理由は定かではないのですが、8歳のとき郷士職を継いでいるのですから尋常ではありません。学問は祖父高松弥三衛門の指導を受けていたのですが、やがて江戸に出て、経史の研究をしたようです。また長谷川流の居合術を極めていたといいます。さらに絵は高知の壬生水石に師事し南画大雅堂の流れを学んだとされています。
 そして、和歌の道にもはいってます。諸国を廻り学者や歌人を尋ね、名所旧跡を訪ねて歌を詠み、郷里安田浦に帰っては自宅に閑居して悠々自適の生活を送っていたとされています。

 歌人学者という人もいます。多くの歌を残しているのですが、やはり高松順蔵は儒学を修め、終生儒教主義をもって近在の壮士に影響を与えた人物だと思うのです。ただ子供たちに漢訳の聖書を読み聞かせていたとの記録もありますから。かなり自由闊達な方だったようです。

 岡本寧浦は一級の学者たらんと努力をしましたが、小埜はやはり郷士なのです。足元の安田浦・安芸の山々が彼の脳裏から消えたことはない筈です。地域のリーダーなのです。

 安政6年(1859)。3月小埜は「経国私言」を著し、郡奉行山本只一郎に呈しています。それは国体・制度・教化・勧農・法令・賞罰・選士・励士・武備・兵権の10章からなっており、彼の思想が見て取れます。国のありようから、産業政策さらに防衛軍備に及ぶ総合政策といえるものであったでしょうが、詳細については解りません。あの時代、各地で今で言う「地域づくり」についての試行錯誤が行われており、土佐藩としても困窮する財政に難儀をしていたのです。時の藩主が藩の財政再建を小埜に任せていたら、案外やりおおせたかもしれません。歴史に「もし」と「たら」はありませんがね。
 備中松山藩の山田方谷が実例を示しています。

 さらに彼の妻はかの坂本龍馬の姉千鶴で、龍馬も時折安田に来ていたといいます。
龍馬も高松小埜から影響を受けた一人です。
 彼の門下には中岡慎太郎をはじめ、石田英吉・柏原禎吉・近藤次郎太郎や長男高松太郎・次男坂本南海男までもがいます。坂本龍馬が京都で亡くなった後、龍馬の後を継いだのは高松太郎(小埜の長男)で、龍馬の兄権平の養子となるのは坂本南海男(小埜の2男)です。坂本南海男は植木枝盛らの勧めで自由民権運動に入り論客として認められていくのです。さらに後年坂本直寛として高知県議会議員となっています。

 彼らは、高知東部地域における土佐勤皇党の主要メンバーであると共に、後の自由民権運動を主導してゆくのです。
 岡本寧浦が土佐勤皇党の父ならば、高松小埜は土佐勤皇党の養父であると称えられるゆえんです。

 高松小埜は、郷士なのです。剣を携え、詩歌の道に興じ、学を修めて子弟に伝える。さらに、知識を生かして藩主に意見具申をするのです。文武両道に秀でた人材だったのです。

 幕末の土佐を「代表する武士」かと思います。

 郷士だったから、こうしたことが出来たのですし、郷士だったから出来なかったことも数多かったはずです。

 高知東部人物列伝のなかでも、好きだなあこの人の話。