ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

小龍

2010-03-18 18:20:53 | 昔話
河田小龍は、土佐藩の御船方軽格の藩士土生玉助の長男として文政7年(1824)に生まれるのですが、祖父の生家河田家を継いだことから河田を名乗ることになるのです。
 幼少の頃から島本蘭渓に画を学び、さらに岡本寧浦の門下に入って勉学につとめるのです。基礎的な学問は岡本寧浦の下でしたのですから安芸郡にもご縁がありますね。

 小龍は本来は画家でしょうが、画家以外の仕事のほうが有名になっています。

 彼の人生が大きく変わるのは1852年のことです。ジョン万次郎が登場するからです。
 15歳で遭難しほとんど日本語を忘れていた万次郎と年は3歳ほど年長でインテリの小龍。それまでにオランダ語についての知識を持っていた彼に吉田東洋が万次郎についての調査を命じたのです。
 吉田東洋は浦戸の船奉行でしたから、小龍の父の上司だったのですし、さらに岡本寧浦とも交流があったことから、小龍の事は以前から注目をしていたのでしょう。

 漂巽紀畧はそのときの聞き取り調査報告書といえるもので、当時のアメリカ西洋事情書として多くの志士達に多大な影響を与えたとされているからです。
かつての小龍は画家として狩野永岳の門下に入り、京都二条城本丸御殿の襖絵の大修理に参加するなど、着々と実績を重ねていたのですが、漂巽紀畧を提出して以後、勤皇の志士たちとの交流が増えるのです。坂本龍馬をはじめ彼らとの交流は彼の人生を大きく変えたように思います。単に画家ではなくなったのです。実業家への転進を意識したこともあったようですが、どうもうまくはいかなかったそうな。
 あの当時、画家といっても1職人ですから、坂本龍馬達と交流をすると、知識を獲得しながら幅広い興味となってあれこれ受け入れるしかなかったのでしょう。

 幕末から明治初頭の小龍は画家として、後進を育て、作品を残します。
 明治21年の春になるとかつて高知県令であった北垣国道が京都府知事に就任したことから、彼に招かれて京都府事務取扱雇となるために、高知から東部海岸伝いに京都に向かうことになります。
 このとき、彼は紀行文を書いているそうです。洒脱な文と得意の絵を添えてあるのだそうですが、読んでみたいものです。高知から京都まで、紀貫之の旅は船旅でしたが、小龍の旅は歩いての旅ですからずっと、今読んでも楽しいことは請け合いです。

 京都では琵琶湖疎水事業の記録係として「疎水図誌」を完成させます。さらに明治天皇・皇太子御前揮毫をするなどして、画家としての晩年を送るのです。

 明治31年(1898)享年75歳。京都北区の等持院に眠っております。
 興味深い明治の土佐人の一人です。



呼んでいるのです。

2010-03-18 16:29:35 | Vision East
 野根山街道が、早く来いと呼んでおります。

 新芽が出始めたから、「来い」というのです。山の木々が風に乗せて呼んでおります。

 何故だかわからないのですが、時折自然の中に入りたくなります。
 まあ行って後悔するようなことはないのですし、体が痛くなるのは普段の鍛錬不足なのですから仕方がないのです。

「一人で行ったら怖いろう」という人がいます。
 そんなことは無いのです。
 本当に怖いのは人間のほうで、自然はあるがまま、そこにあるだけですから、此方で無理をしない限りにおいては、怖い存在ではありません。

 無理は厳禁ですがね。体力勝負です。

 それに、春夏秋冬表情が変わるのですから、楽しみは何層倍にもなるのです。
 さらに、天候にもよって変化しますし、時間によっても印象が変わります。

 木も草も生長しますから、何度行っても以前と同じということはありえません。

 ただ、私の老化。
 これが大問題です。鍛錬不足ですからね。
 
 しかし呼ばれておりますので。「はい!!。行きます。」としか言いようがないのです。
 今月中に予定をくって何処かにいくことにしましょう。自然が呼んでおります。
 たくさんの映像資料も欲しいところです。