ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

神になった男

2010-03-19 23:31:09 | 高知県東部人物列伝
 室戸市羽根町の旧道を東に向かっていると、小さな、といっても普通にくぐれるほどの大きさはあるのですが、鳥居があります。鑑雄神社です。
 この神社に祀られているのが岡村十兵衛なのです。

 藩政時代の羽根浦は藩主の直轄地だったこともあって、お城から徴税官として分一役が派遣されていたのです。布師田の出身であった岡村十兵衛が任命されて赴任して来たのは、天和元年(1681)2月の頃だったそうな。
 分一役とは、他浦他国へ船積みするときに課税する税を分一銀といったことから、この名前があったのです。

 当時羽根村は不作、不漁続きで困窮の極といったところだったそうで、赴任してきた岡村は村内をくまなく歩いて救済方法を検討し、藩の許可を得て木材を伐採し、大阪に売りさばいて利益を出すのですが、根本的な救済とはならなかったのです。
 
 貞亨元年(1684)彼が赴任して3年あまりたった頃、状況がさらに悪化したことで藩庁に嘆願し続けるのですが、返事がなく、彼は無断で御米蔵を開いて浦人を救済するのです。

 後に、その責任を取って割腹して果てたそうな。
 そして浦人は彼の死を悲しみ悼んで、鄭重に葬ったそうな。

 弘化4年(1847)には13代山内豊照が彼の墓前に手を合わせることになるのですし、維新の後、明治4年には鑑雄神社として祀られることになるのです。
 昭和28年、没後270年祭を挙行した時には、各界の名士が参列し特に高知県の長老元貴族院議員野村茂久馬の参拝があって、羽根村始まって以来の盛会であったとの記録があります。

 自らを犠牲にして、民を救済した義人岡村十兵衛は神となって、未だに手を合わせる多くの方々に囲まれて、崇拝され尊敬を集めているのです。
 

 

人生の意義に。

2010-03-19 11:14:58 | 高知県東部人物列伝
 彼の名前は、藤村六郎といいます。明治21年(1888)生まれです。
 藤村製糸株式会社の創業者藤村米太郎氏の二男です。
 
 昭和22年(1947)奈半利町の町長に就任することから今回の話が始まるのです。59歳のときです。
 公言することは、「わたしは、新港開設のために生まれてきたような人間です。」

 そして考えていたことは、「特定の人の名前を残さず無名の方々が、”よってたかって”
この港を造るところに奈半利港の価値があり、それに何を求めずに奉仕できた方々にほんとうの人生の意義がある。」なのです。

 人生の意義を考えながら、仕事をしていた町長がいたことに驚きです。
 昨今はいい結果が出ると、「俺がやった。」「すごいろう。」そんな政治家ばかりです。
そして失敗事例が出ると、「知らなかった。」というのです。

 「特定の名前を出さずに・・・。」地域運動の大切なところです。
 「人生の意義・・・。」最近こんな話を聞いたことが無いなあ。

 当時の港は河口港で、奈半利川が暴れると埋まってしまうような港だったのです。
 紀貫之の土佐日記にある「奈半の泊り」の事例もありますし、中芸の森林は長曾我部元親の時代には既に木材資源の豊富な場所として中央でも評価が定まっておりました。
 秀吉の依頼で京都方広寺大仏殿造営の為に木材を搬出した記録がありますから、港は必要な施設ではあったのです。ただ地形的には、港を造る適地ではなかったことから、昭和28年に着工した港は掘込港湾だったのです。

 高知県の東部地域に商業港を作ったのです。400年以上前から木材の搬出港としての役割を果たしてきた実績が地域住民の理解を得て、運動として展開が出来たのです。

 戦後初の選挙に出て、当選。自分の役割を果たして、退任するのです。
 港建設に、自分の政治生命をかけたのです。
 彼が町長をしていたのは、昭和22年(1947)からの8年間。2期です。
 藤村家の巨財を食いつぶしたとされている彼ですが、実に魅力的な人物です。
 また、町長退任後亡くなるまでの13年間程をどの様に生活していたのか、興味のあるところです。さらに、彼が町長になりたかったとは思えないのです。押されて町長になって、気がついたら港・港だったような気がします。

 今も奈半利港は太平洋に向かって門戸を開いております。
 
 昭和43年(1968)2月没、享年79歳でした。彼の人生の意義は、やはり港だったのだろうか。もっと何かしら出てきそうな気がしております。政治生命は港だったのでしょう。しかし彼の人生からすると、たった8年間のことです。
 あと70年ほどの彼の生活について、追いかけてみたいと考えております。