室戸市羽根町の旧道を東に向かっていると、小さな、といっても普通にくぐれるほどの大きさはあるのですが、鳥居があります。鑑雄神社です。
この神社に祀られているのが岡村十兵衛なのです。
藩政時代の羽根浦は藩主の直轄地だったこともあって、お城から徴税官として分一役が派遣されていたのです。布師田の出身であった岡村十兵衛が任命されて赴任して来たのは、天和元年(1681)2月の頃だったそうな。
分一役とは、他浦他国へ船積みするときに課税する税を分一銀といったことから、この名前があったのです。
当時羽根村は不作、不漁続きで困窮の極といったところだったそうで、赴任してきた岡村は村内をくまなく歩いて救済方法を検討し、藩の許可を得て木材を伐採し、大阪に売りさばいて利益を出すのですが、根本的な救済とはならなかったのです。
貞亨元年(1684)彼が赴任して3年あまりたった頃、状況がさらに悪化したことで藩庁に嘆願し続けるのですが、返事がなく、彼は無断で御米蔵を開いて浦人を救済するのです。
後に、その責任を取って割腹して果てたそうな。
そして浦人は彼の死を悲しみ悼んで、鄭重に葬ったそうな。
弘化4年(1847)には13代山内豊照が彼の墓前に手を合わせることになるのですし、維新の後、明治4年には鑑雄神社として祀られることになるのです。
昭和28年、没後270年祭を挙行した時には、各界の名士が参列し特に高知県の長老元貴族院議員野村茂久馬の参拝があって、羽根村始まって以来の盛会であったとの記録があります。
自らを犠牲にして、民を救済した義人岡村十兵衛は神となって、未だに手を合わせる多くの方々に囲まれて、崇拝され尊敬を集めているのです。
この神社に祀られているのが岡村十兵衛なのです。
藩政時代の羽根浦は藩主の直轄地だったこともあって、お城から徴税官として分一役が派遣されていたのです。布師田の出身であった岡村十兵衛が任命されて赴任して来たのは、天和元年(1681)2月の頃だったそうな。
分一役とは、他浦他国へ船積みするときに課税する税を分一銀といったことから、この名前があったのです。
当時羽根村は不作、不漁続きで困窮の極といったところだったそうで、赴任してきた岡村は村内をくまなく歩いて救済方法を検討し、藩の許可を得て木材を伐採し、大阪に売りさばいて利益を出すのですが、根本的な救済とはならなかったのです。
貞亨元年(1684)彼が赴任して3年あまりたった頃、状況がさらに悪化したことで藩庁に嘆願し続けるのですが、返事がなく、彼は無断で御米蔵を開いて浦人を救済するのです。
後に、その責任を取って割腹して果てたそうな。
そして浦人は彼の死を悲しみ悼んで、鄭重に葬ったそうな。
弘化4年(1847)には13代山内豊照が彼の墓前に手を合わせることになるのですし、維新の後、明治4年には鑑雄神社として祀られることになるのです。
昭和28年、没後270年祭を挙行した時には、各界の名士が参列し特に高知県の長老元貴族院議員野村茂久馬の参拝があって、羽根村始まって以来の盛会であったとの記録があります。
自らを犠牲にして、民を救済した義人岡村十兵衛は神となって、未だに手を合わせる多くの方々に囲まれて、崇拝され尊敬を集めているのです。