ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

感謝です。

2009-08-24 00:15:10 | 日記
 7月にはいって書き始めたこのブログに、本当にたくさんの方々が来ていただいております。

 ありがたいことです。書いている本人は、思いつくままに書いているだけなのですが、つい気になって訪問数とか、アクセス数に目がいってしまいます。

 正直びっくりしております。
 50日程度で、すでに3000人以上の方が覗きに着ていただいておりますし、アクセス数にいたっては5000超という、なんだかわからない数字が並んでおります。ありがたいことです。

 最近は書きたいことが多すぎて、朝、目がさめると今日は何から書こうかなといった、生活の主要部分になろうとしております。

 自分の勝手なブログですが、時々覗きに来てください。励みになります。
 よければ、コメントもいただければありがたいですねえ。

 独白です。

ありよう。

2009-08-23 23:21:49 | 日記
 今日は来月13日に、高知から奈半利を見学にお見えになる方々が、最終打ち合わせ、確認作業に来られました。

 彼らは、今、現にあるものを説明しようとしています。ただ残念ながら何でそのようになったのかということは考えていない様に思うのです。

 ナンデの繰り返しは、浅学の身には苦痛でしかなかったのですが、そんなことが重要ですか??。議論が出来ない立場には、ひたすら我慢するしかないのです。

 これは何でこのような名前がついているのですか??。
 困ったね。なんであなたはふくろう親父。なのですかといわれても困るねえ。

 私は父と母がいて、生まれてきました。それを、説明しないといけないことなのだろうか。困るねえ。

 彼らは何を望んでここに来るのだろうか、只珍しいものを探してここに来ているだけだとしたら、一度来ればそれで良いのです。

 ここにはここでしか味わえない生活文化があるのですが、それは珍しくもない。ただ、ここでは普通のことなのです。しかしながら、私達には大事なことなのです。

 改めて今日それが確認できて、うれしい。そう思いました。

 ここでは、ここの自然と共に、ここに住む私達は、それに沿って生きてゆくことが良いのだし、無理がないと思っているのです。

 ここの生活のありようは、ここの場所だからこそなのです。

 「何で・何で・・・」。困った「ちゃん」ですね。

お爺ちゃんでしょうかね。

2009-08-23 01:19:47 | 高知県東部人物列伝
 土佐勤皇党の父が、岡本寧浦ならば、養父は高松小埜だといわれています。
 誰も言わないけれど、お爺ちゃんがいるのです。

 名前は宮田定則。昔々の話ですが、凄いおじいちゃんです。

 宮田定則が生まれたのは、延宝3年といいますから西暦では1675年でしょうか。後の岡本寧浦と比べると100年以上前のお爺ちゃんです。
 そして彼が生まれたのは、安田浦の名高い医師、宮谷玄琢の家です。

 彼は若年より教師役の父・玄琢に才能を見せ付けます。そして当時学問の中心地である京都への遊学を16歳のときに父に認めさせるのです。
 父は多くは言わなかったそうです。ただ「最後までやり続けるのだ。」

 京都では医学の大家といわれた方々について医学を修めたものの、さらに彼は土佐藩士関牧庵の紹介で儒者浅見絅斎に入門します。彼は医学をそっちのけにして10年以上に亘って懸命に朱子学を研究することになります。また彼は性格は淡々としていて、物事にこだわらず、酒をたしなみ、議論が卓抜で時々人の意表を突くことがあったそうな。

 ただ、師絅斎が門下生に易経を講義していたときに、酒に酔って席についたもので、酒くさい彼を嫌って同席の仲間が抗議したことから、講義が中断したこともあったそうな。

 そうしたことが原因の一つでしょうか、彼は土佐に帰ることになります。

 土佐に帰ると安芸の五藤の殿様は客分の師として彼を迎え、さらに70歳になった折に、藩の儒官になります。また勤めの傍ら廿代町の自宅で好学の子弟を集めて、得意の四書、近思録(朱子学の要約)の講義を行っています。

 宮田定則は、安田浦の医師の子でしたが、学問によって格式のやかましい時代に上士格になったのは破格の栄誉だといわれたのです。

 やりゃア、酒でつまずいても、仕事を与えられると、ちゃんとやる。
 一般的な評価は高いのです。
 宝暦3年に没しているのですが、中央での評価も「酒におぼれなければ、日本的な大学者となっていただろう。」と言うのです。
 さらに、かの谷秦山曰く「高知城下の士人は、定則のおかげで人倫の大道をわきまえるようになったのだ。もし彼が居なければ皆は盲人に等しかったのだ。」

 安田浦の土佐勤皇党のお爺ちゃんは、お酒に少しだらしなかったのですが、学問の種は確かにまいてくれたのです。

 宮谷玄琢の子に宮田用蔵定則なる名前を付けたのは、京都の儒学者浅見絅斎(アサイケイサイ)で、佐伝という書物にある劉子の語をとって、なずけたとされています。
 いかにもと思わせてくれる、逸話です。
 
 こんな爺ちゃんが中芸の安田で生まれて、高知でかつて生きていたのです。

 土佐のいごっそうというか、いかにもそれらしい話でした。

山へ向かう。

2009-08-22 21:37:34 | 野根山街道物語
 多くの物語の舞台となった野根山街道に来週の日曜日、そう選挙に日に行くことになりました。もちろん事前に投票には行きますよ。

 今から楽しみにしているのですが、何分久しぶりのことで、それを聞きつけた友人が「おい、大丈夫か??」「本当に行くがか。」心配してくれました。

 メタボ最前線ですからねえ。「へいきよね。」と言ってみたものの、今になって少し心配になってきた。

 当初の目的。写真がほしいってのは、もう手に入ってしまったし、どうしても行かなければならない理由など無くなってしまったんです。

 さてどうするか。ここが判断の分かれ道です。
 「行くべきか、行かざるべきか。」
 もし行って、ひっくり返りデモしたら、「それ見たことか。」てなことになりますしねえ。

 ハムレットみたいな心境です。

 あと10KG体重を落とさないとねえ。しんどいと思うんですが、ま、いいか。

 なんとかなるでしょ。
 写真にあるように、いいところですからね。
 今回は、13KMほどのハイキングです。

土佐勤皇党の父。

2009-08-22 00:55:53 | 昔話
 今日は安田町の岡本寧浦について書こうかなと思っていたのですが、どうもいけません。なにやらどんどん広がって仕方がないのです。そのうえ同郷の高松小埜とのかかわりに気が行ってしまい、どうにもまとまらないのです。さてどうするか。
 とりあえず、今日出来る範囲で書いてみようと思います。
 最後まで行き着くのかわかりませんが、行ってみましょう。
 多分まとまらないだろうけどね。

 岡本寧浦。安田町指月山乗光寺第5世弁翁の子。後の世に曰く「土佐勤皇党の父。」なのです。
 彼は、名を退蔵、寛政6年生まれです。
 お寺の後継者なのですが、才を認めた父親が彼が6歳の折に寺務から解放するのです。「学にて身をたてよ。」だったのです。
 先ずは本山,西本願寺西六条の僧寮に入り基礎仏典を研究することから始めます。
 それから、彼の人生の中で命をかける程のかかわりが出てくる人たちに出会うのですが、そこからさらに広がってゆくのです。
 このままでは終わりそうもないので、一回目の途中下車をする事にします。

 下りる場所は広島県です。
 本山での研究に飽き足りなくなった彼は、安芸の国(広島県)の石泉僧叡和上の門を叩きます。この和上、実に寧浦に似ているのです。ちがう。和上に寧浦がよく似ているのです。寺の住職なのですが、寺務よりは学問が大好きで、若者達に教えるのが大好きなのです。石泉の門下から後の世に勧学(本願寺の宗学最高の位)が5人もでているのです。ゆえに石泉の門下を後の世に「石泉学派」とよび、浄土真宗本願寺派では「空華学派」と並んで「二大潮流」と呼ぶことになるほどなのです。
 
 そうしたところに寧浦は入ってゆくのですが、その石泉門下では、円識と共に「ニ傑」と称されるようになるのです。

 ここからです。その円識の弟子に宇都宮黙霖という人がいます。
 彼は国学研究によって勤皇論を唱え始め、40数カ国を渡り歩くのです。
 安政2年、萩に来て吉田松陰の書を読み感動をして、既に獄に繋がれていた松陰に書を送って影響を与えたとされています。
 安政の大獄の際にも捕縛されましたが、僧形により釈放されたとか棺桶に入って脱出したとかと諸説があります。

 後の世、明治新政府の総理大臣伊藤博文が「先生、先生」と呼んで追い回したとされています。

 さて、寧浦は土佐の高知で結婚をして、高知新町に私塾「紅友社」を開き門人千人を越えたといわれているのです。門人に間崎滄浪・清岡道之助や河田小竜・・・ときりがないほどです。
 結婚した相手は安芸市の医師小野敬蔵の娘とき。さらにその妹みねは岩崎弥太郎の母になるのですから、歴史をさかのぼると「面白い」ですね。もちろん寧浦は成長した弥太郎を連れ歩くことになるのですが、長くなるのでもう止めます。

 できれば、早い機会に岡本寧浦を書きたいですね。面白すぎて困ったなあ。
 高松小埜や中岡慎太郎もね。みんな偉いよね。
 彼らが今生きていたらなんと言うだろうね。
 考えるダニ恐ろしい。そう思う。
 やっぱりまとまりがつかなかった。残念。
 

びっくりしたねえ。

2009-08-21 10:18:13 | 日記
 なんといっていいのやら。
 世界陸上ベルリンが始まってからというもの、生活のリズムが狂っています。

 夜中から朝方にかけての放送ですからね。ずっと見ていると昼間しんどいのです。当たり前の話ですがね。

 しかし、ウサイン・ボルトですか、早いねえ~~。
 100Mの時には、一瞬時計が間違っているんじゃあないのかと思ったぐらい。
 「そんなことはありえない」だったのですが。
 200Mになると、これが逆に他の選手が遅すぎるみたいに思えてしまうから不思議です。彼はいったいどこまで早くなるんでしょうね。

 なにか、かけ離れた存在のように思えてしまいます。
 突然変異の人間の進化系かな。
 そのうち水泳でも出てくるかもしれませんね。

 とんでもない存在が現れそうです。
 しかし、何年かするとなれてしまうんでしょうね。

 しかし5体で見せられると、納得せざるを得ませんね。
 時計、正確だよなあ。

忙しいのです。

2009-08-20 10:13:19 | 日記
 昨夜、運営委員会がありまして、これから1ヶ月ほどの予定が確定しました。

 まあ忙しいことですが、良い時間がすごせそうです。

 来月13日から2週間ほど藤村製絲株式会社で、都築房子さんの造詣作品展を開催する件で、わたしの担当も決まりました。広報と日直です。

 8月25日(火)ガイド研修会になりました。

 9月2日(水)は教育事務所の研修会で町並みをご案内することになりました。

 予定が詰まるとなんとなく、いそがしそうで、良い感じなのですが、合間合間に仕事を入れる作業は楽しいことです。

歩こうか野根山街道

2009-08-18 11:48:01 | 日記
 野根山街道を歩くツアーが企画されています。

 時期は8月30日(日曜日)午前8時30分
 場所は集合が米ヶ岡生活体験学校
 参加費1000円(弁当代等)

 主催 奈半利の明日を開く会

 行ってみようかと思っています。久しぶりに。
 先着50人だそうですよ。

 もうずいぶんと前、四郎が根峠から一気に奈半利まで下ったことがあるのですが、ビールにまみれた体にはキツカッタノデスガ、今回は宿屋杉までの13KM程度ですから何とかなるのではないかなあ。

 途中で写真など撮りながらゆっくり出かけたらいいんじゃあないかな。

 なはり観光文化協会へ申し込みをしてください。0887-32-1288

 帰ってきてからの風呂と冷たい・・・・・が楽しみです。

 初めての方もグループで出かけるのですから、安心ですよ。

蒸気機関車登場

2009-08-17 00:05:55 | 森林鉄道物語
 魚梁瀬森林鉄道に、なんと土讃線より早く蒸気機関車が導入された話です。それだけ魚梁瀬の森林資源が豊かだった証なのですが、困った話も満載でした。

 写真が大正8年に全国で始めて青森県の津軽森林鉄道で使っていたものを引き取ったシェー式蒸気機関車です。当時の金で6万円という代物なんです。
 それまでは、トロッコを引くのは犬や牛だったのですが、馬路村釈迦ヶ生から久木の間に逆勾配の場所があったもので、3トンにもなる荷重に無理があると判断されたようです。

 この蒸気機関車は薪を燃料にしたこともあって、期待されたほどは力を発揮できなかったようです。あまりにも鈍足で、「牛のほうがまし」といわれたのです。
 また10トンもの自重のために線路への負担が大きく、よく脱線をしたのです。
 ただ高知の人間の好奇の目には好評だったようで、遠くから走る姿を見に集ったとの記録がありますよ。

 山の中を木を満載をしたトロッコを引っ張って疾走する蒸気機関車は、見る人を驚かせたでしょうし、噂が噂を呼んで注目を集めたことでしょう。
 この蒸気機関車、1年ちょっとでお払い箱になったそうな。

 よかったのか悪かったのか???。それでも走る姿は迫力があったでしょうね。
 

できた。

2009-08-16 08:29:39 | Vision East
 来月の展示会のカードが出来ました。
 是非見てください。

 地域づくり活動の一環で開催するのですが、文化活動って難しいのです。みんなが「うん。」とは言わないですからね。

 特に今回のような新しいジャンルの作品は、普段見る機会がほとんどありませんからね。
 知らないものは、好きにもキライにもなってないわけで、こうした作品に向き合う「初体験」なのです。
 かつて大分県の平松知事さんが1村1品運動を展開していたとき、物作りを通して、人づくりをする。そして人によって地域文化を醸成してゆく。そうした話を聞いたことがあります。1村1風運動と称しておりました。

 さあ、ここでどんな風が吹き始めるのでしょうね。

 どんな印象を見る人が持つのか、楽しみです。

 この、ブログをかき始めて、45日ほど。
 やっと1日に100人程度の方々が覗いてくれるようになりました。
 うれしいのですが、ちょっと緊張です。

 まあ当分気楽に勝手なことを書くことにします。

 あ!!。この展示会見に来てくださいよ。
 体験を共有しましょう。